幕末の神様〜桜まといし龍の姫〜
今日の仕事を全て終え、千早の部屋から退室した譲は男装に手早く着替えると、母の胡弓を風呂敷で包み、島原を出た。
屯所への帰路を辿るその道中、千早の部屋から出た際に、飛脚で浪士組の屯所から自分宛ての手紙が届いたことを思い出す。
無事、屯所まで家里を連行した山崎は土方さんとの約束を守ったということで賞賛を受けたらしいが、土方さんに譲を卑下していたことを土下座して謝罪し、一生譲さんについて行くとまで言っていたらしい。
そして手紙の最後に、面倒をかけてすまなかったと、土方さんの詫びも添えられていた。
山崎も案外、純粋な男だと思いながら、譲はどういたしまして、というような内容を返したのだった。
戻ってきた屯所はやけに静かだった。
それもそうだろう。もう真夜中だ。
座敷で起きた斬り合いの後始末も全て済ませていた譲は、身体がくたくただった。
頭がぼうっとして、目の前に銀砂が散りばめられたようにちかちかして、譲は自分が貧血を起こしているのだと悟ると、廊下にうずくまり、頭を押えた。
そういえば、最近、こんな疲労がよく続き、身体に負担がかかっているのか、月のものも滞っていた。
一日ぐらいは安静にしようと、さすがに自分の体調を危惧しながら、譲は何とかして自分の部屋の襖を開け、そして呆然と立ち尽くした。
暗い部屋を灯すのは微かな灯明の明かり。
その人は、その明かりを綺麗な眼差しで見つめていたが、やがてそのまつ毛が揺れた。
「総司………?どうして………もうこんな時間なのに………」
その問いに答えず、総司は笑顔で譲を迎える。
「おかえり。ずいぶん遅かったね。待ちくびれたよ」
その声にほぐされるように、ようやく身体の自由が利いた譲は、部屋に入って襖を閉めると、疲れ切ったように座り込んだ。
だが不思議と、先ほどまで感じていた貧血などといった疲れは微塵も感じなかった。
それどころか、鼓動が速くなり、身体中が熱かった。
そんな中で、譲はふと、総司の隣に置かれていたものに目をとめる。
譲の中で、どうして総司がここにいるのかという全ての辻褄が合う。
譲は口元を緩める。
「約束………守ってくれたんだ」
「まあね。また破ると、ぼこぼこにされるから」
無邪気に笑いながら、総司は、はいっと、包みを開け、お焼きを譲に差し出す。
「ありがとう」
つられて譲も微笑み、お焼きを受け取る。
お互いにお焼きを手にすると、子供のころを思い出して、微笑み合いながら、ほぼ同時にそれを口にした。
冷めてはいたものの、懐かしい温もりに満たされた甘さが口の中いっぱいに広がり、笑みが止まらなかった。
「おいしいね」
譲が言葉を零すと、総司がそうだね、と頷きを返してくれる。
そんな何気ないやり取りが、とても幸せで、譲は目頭が熱くなるのを感じた。
幸せなのに、こんなにも切なくなるのはどうしてなんだろう。
胸が苦しくて、息ができない。
何も考えられなくて、お焼きを食べていた譲の手が止まる。
『恋してるみたいどすな』
千早姐さんの言葉が頭を蹂躙する。
譲は、胸に手を当てる。
ああ、そうか。そうか。
これが、相手を思うとどうしもなくなってしまうこの感情こそが、姐さんの言っていたことなんだ。
相手を想えば想うほど、苦しくて、切なくて、泣きそうになる。
時には喜んだり、恥ずかしくなったり、熱くなったり。
譲は、自覚した自分の想いに首を振った。
涙が止まらなかった。
(大切だからこそ……怖い)
今なら、千早姐さんの問いに答えられるだろう。
突然家族を失ったあの日。
自分は永遠の幸せなどないことを知った。
幸せに満たされることで味わうことになる、不意にやってくる絶望が自分はたまらなく恐ろしいのだ。
さらに、自分はこの組の剣になると誓った。どんなことでも命をかけて戦う。
いつ、この命が果てるのか定かではない。
だから総司には、過去の自分のような経験をしてほしくなかった。
唐突に信じて疑わなかった幸せを奪われる恐怖。心を砕かれ、常人ではいられなくなる感覚。
だから……。
(総司には幸せになってほしい)
だからこの想いは封じ込めなくてはならない。ずっと、永遠に解放されることのないように。
たとえ孤独が待ち受けていようとも、彼が幸せになるのであれば、それでいい。
譲が涙を拭っていると、彼女の異変に気付いた総司が素っ頓狂な声をあげる。
「譲⁉ どうしたの⁉ 何か入ってたの?」
心配そうに背中を擦ってくれるその優しさが、今の譲には辛かった。
総司がもっと自分を突き放してくれたら、どんなに楽だろうか。どんなに早く、けじめをつけられただろうか。
(でも……あと少しだけ……)
譲は総司の手を取ると、その温もりを感じるかのように、自分の頬に総司の手を当てた。
手を擦っていた総司の手が止まる。
だが、総司は何も問いかけることはなく、背中を擦ってた手をそっと放すと、譲の涙を拭った。
灯明の火が消え、月明かりを頼りに、互いの顔を見合う。
男を装うために隠している髪を下ろしても、譲は抵抗しなかった。
顔にかかっているその長い黒髪を耳にかけると、総司は憂いを帯びた譲をまじまじと見つめた。
月明かりに浮かぶ譲の白い肌は透き通っていた。そして今は熱に浮かされて、わずかに蒸気している。
総司は少し強引に、譲の肩を抱き寄せた
。