ほどよいあとさき
そして、「結婚」という単語を宴会の最中に持ち込んでは私の心も体も揺らしていた真意を、歩に聞く勇気を与えて欲しい。
私が願ってやまない答えを返してもらえると、信じる勇気を与えて欲しい。
「あゆむ……」
なんの動きも見せない歩を見上げると、そこには無表情を装った歩の視線と、ほんの少しだけ歪んでいる口元があった。
男性にしては長めのまつげの向こうの瞳はじっと私を見つめながらも、その奥には私の真意をはかるかのような淡い光。
歩は、言葉と態度で強く私を引きずってここまできたけれど、本来私を傷つけたり嫌がることをするような人ではない。
夏乃さんによって変えられた私と歩の未来と、彼女によって壊されそうになった会社の将来。
あの時は、何の手立ても浮かばなくて、どうしようもなかった。
歩から別れようと告げられた時にも同じ瞳を私に向けていたと、気づいて心が痛む。
歩は、別れを受け入れた私の言葉につらそうに頷いたけれど、あの時の歩の瞳の光は、私の言葉には決して同意していないと教えてくれていた。
壊れそうな私の全てを気遣っての苦渋の選択だったはずの別れ。
そして、恩がある会社の将来をダメにはできないと判断した歩の壊れそうな目。
歩が、彼の人生を支えてくれた会社の為に夏乃さんの要求を受け入れ、私との別れを決めたと気づいていた私は、別れてからも歩に気持ちを残したままだった。
そして、もう二度と歩の側に戻るなんてできないと思っていたから、歩と過ごした愛しい時間を記憶の向こうに押しやって、忘れたふりをして過ごしてきた。
愛している気持ちも、愛された過去も、複雑に存在する心の襞に分散させ、落とし込んで、思い出さないよう、必死に生きてきた。
本当に、必死に生きてきた。
「私の手を一方的に掴まないで。優しく、つないで欲しい」
私は歩にそう呟いた。
それは、どうしようもないほど歩のことを愛していると、再び認めること。
歩をひとりにして、私ひとりが楽になってしまった過去に向き合うこと。
「離さないさ、もう二度と」
私の肩を抱いていた歩の手が、撫でるように私の体を滑り、そのままお互いの指を絡め合う。
その瞬間、私は歩の手を二度と離さないように、そして、離されないように。
歩と別れてからずっと恋しかったその手を、思いを込めて包み込んだ。