みどり姫
□第二章・捧げられし名
彼女を初めて『みどり姫』と呼んだのは兄ではなかった。
そう、あの日の事はよく覚えている。
一年で一番盛大な祭、シャンタル祭。
金の月、柔らかな秋の日差しの中、十一日もの長さにわたり続けられる豊穣祭。
一日目は、祭の始まりを王が告げ、神に天地に精霊に感謝を捧げる奉納舞がメインになる。
この舞手に選ばれるのは国一番の踊り手。身分を問われる事なく選考が行われる為に、貴族王族の姫君が願っても中々叶うものではない。
元々、このシャンタル祭の『シャンタル』とは、ダラ・スーチェア開国の頃、始祖王に従い、神に天地に精霊に、十一日間、水以外を何も摂らず舞を奉納し、命を捧げた舞姫の名前なのだ。
その心の清らかさ、その舞の見事さに打たれた、神が、天地が、精霊が、この国に永遠の豊穣を約した───この国の人間ならば、子供でも知っている伝説だが、この国は不思議と、開国以来、飢饉を知らない。故に、ダラ・スーチェアでは、この祭を、最も大切なものとする。
二日目からは、王宮、碧翠宮の舞姫の間では七日にわたり盛大なパーティーが催される。
アザルディーン大陸の殆どの王族───クードリド王国以外───が集まる。名代を立てるのではない。何処の国も、王族自身が出席するのだ。戦争中の国は停戦条約を結んでまで。
故に、このパーティーは非常に政治的な意味合いが強い。
このパーティーの『午前の部』に、マーレイが初めて出席したのは十歳の時。
それまでは、大人しく自室にこもり、侍女達と過ごしていた。
シャンタル祭の『午前の部』は、王族貴族の子女が顔を合わす数少ない機会故に、社交界デビューを果たしていない子供達も、大人達に混じって楽しむことが許されている。将来の結婚相手の候補を見る、貴重な機会なのだ。
アザルディーンが西の大陸に比べて戦乱が少ないのは、間違いなくこのシャンタル祭の為であろう。
そして、その日の主役は間違いなく彼女だった。
小さな、小さなマーレイ・ヴェルクラム・リン=ダラ・スーチェア。
ダラ・スーチェアの至宝。
その日の彼女は、白い上着に深い色合いの翡翠色のスカートを身に着けていた。胸元高く結い上げられた帯は黒綾絹のそれ。背ではなく身体の正面に帯を結い上げるのは結婚前の乙女の印。その帯の裏地は、くすんだ、そして一段と深い色合いの緑。
梳かしただけで無造作に流された腰までの緑の黒髪には、小さな真珠を散らしてある。
幼い淑女らが皆、明るく可愛らしい色合いの……ピンクやら水色やら……そんなドレスを身に纏う中、その色彩の衣装だけでも充分に彼女は人目を引いたけれども……彼女がその日の主役たりえた理由は、そのようなものでは、決して無くて。
その美しさ。
美しいと言っても、人それぞれに美の基準というものはあるだろう。だけれども、彼女の前に立てば誰もが……遠い遠い異国の者でさえ……『美しい存在』とは、このようなもの、と、そう知るだろう。
それ程までに、マーレイの美しさは完璧だった。
例えばその顔。
小さな卵型の輪郭。
その中にある小さな唇は、花でも食べたかのよう。紅を刷く必要などない程、赤い。
頬はまるで咲き初めの薔薇のように。
そして、鼻はつんと高く。
だけれども、それよりも何よりも。
その瞳。
輝くみどり。
そう、その瞳の中には……肌に扇の影を残す程に黒く長い睫毛に縁取られたその瞳には……おそらく、この世の総てのみどりがあった。
翡翠のみどり、大地の恵みのみどり、木漏れ日のみどり、エメラルドのみどり、そして……。
「マーレイ、どうしたんだい? 気分でも悪いのかい?」
兄のマヒトの声に、マーレイは慌てて振り返った。
「兄様……」
その日のマヒトは白綾絹のブラウスに海の青のズボンを合わせていた。少年らしく清々しい装いの兄に、マーレイは微笑む。
柱の陰、人の目の死角に隠れていたのに、何故兄はあっさりと自分を見つけたのだろうか? もしや、上手に隠れていたつもりなのは、自分だけなのだろうか?
マヒトは十三になったばかりだった。それでも、小さな紳士よろしく、果実酒を差し出す。
「わたくし、気分の悪そうな顔をしていたのでしょうか? 兄様」
差し出されたグラスを受け取り、小さな声でマーレイは問う。少しばかり、不安な口調で。隠れている時でさえ、笑顔を絶やさないようにしていたつもりなのだけれども……誰に見つかっても構わないように。
「いや、今日はずっとにこにこ笑っていたけれど……兄としての勘かな。今日の僕の姫君には生気がない。さぁ、お飲み。いい子だから。心配しなくても大丈夫だよ。子供でも飲める、酒とは言えない酒だから」
そう、あの日の事はよく覚えている。
一年で一番盛大な祭、シャンタル祭。
金の月、柔らかな秋の日差しの中、十一日もの長さにわたり続けられる豊穣祭。
一日目は、祭の始まりを王が告げ、神に天地に精霊に感謝を捧げる奉納舞がメインになる。
この舞手に選ばれるのは国一番の踊り手。身分を問われる事なく選考が行われる為に、貴族王族の姫君が願っても中々叶うものではない。
元々、このシャンタル祭の『シャンタル』とは、ダラ・スーチェア開国の頃、始祖王に従い、神に天地に精霊に、十一日間、水以外を何も摂らず舞を奉納し、命を捧げた舞姫の名前なのだ。
その心の清らかさ、その舞の見事さに打たれた、神が、天地が、精霊が、この国に永遠の豊穣を約した───この国の人間ならば、子供でも知っている伝説だが、この国は不思議と、開国以来、飢饉を知らない。故に、ダラ・スーチェアでは、この祭を、最も大切なものとする。
二日目からは、王宮、碧翠宮の舞姫の間では七日にわたり盛大なパーティーが催される。
アザルディーン大陸の殆どの王族───クードリド王国以外───が集まる。名代を立てるのではない。何処の国も、王族自身が出席するのだ。戦争中の国は停戦条約を結んでまで。
故に、このパーティーは非常に政治的な意味合いが強い。
このパーティーの『午前の部』に、マーレイが初めて出席したのは十歳の時。
それまでは、大人しく自室にこもり、侍女達と過ごしていた。
シャンタル祭の『午前の部』は、王族貴族の子女が顔を合わす数少ない機会故に、社交界デビューを果たしていない子供達も、大人達に混じって楽しむことが許されている。将来の結婚相手の候補を見る、貴重な機会なのだ。
アザルディーンが西の大陸に比べて戦乱が少ないのは、間違いなくこのシャンタル祭の為であろう。
そして、その日の主役は間違いなく彼女だった。
小さな、小さなマーレイ・ヴェルクラム・リン=ダラ・スーチェア。
ダラ・スーチェアの至宝。
その日の彼女は、白い上着に深い色合いの翡翠色のスカートを身に着けていた。胸元高く結い上げられた帯は黒綾絹のそれ。背ではなく身体の正面に帯を結い上げるのは結婚前の乙女の印。その帯の裏地は、くすんだ、そして一段と深い色合いの緑。
梳かしただけで無造作に流された腰までの緑の黒髪には、小さな真珠を散らしてある。
幼い淑女らが皆、明るく可愛らしい色合いの……ピンクやら水色やら……そんなドレスを身に纏う中、その色彩の衣装だけでも充分に彼女は人目を引いたけれども……彼女がその日の主役たりえた理由は、そのようなものでは、決して無くて。
その美しさ。
美しいと言っても、人それぞれに美の基準というものはあるだろう。だけれども、彼女の前に立てば誰もが……遠い遠い異国の者でさえ……『美しい存在』とは、このようなもの、と、そう知るだろう。
それ程までに、マーレイの美しさは完璧だった。
例えばその顔。
小さな卵型の輪郭。
その中にある小さな唇は、花でも食べたかのよう。紅を刷く必要などない程、赤い。
頬はまるで咲き初めの薔薇のように。
そして、鼻はつんと高く。
だけれども、それよりも何よりも。
その瞳。
輝くみどり。
そう、その瞳の中には……肌に扇の影を残す程に黒く長い睫毛に縁取られたその瞳には……おそらく、この世の総てのみどりがあった。
翡翠のみどり、大地の恵みのみどり、木漏れ日のみどり、エメラルドのみどり、そして……。
「マーレイ、どうしたんだい? 気分でも悪いのかい?」
兄のマヒトの声に、マーレイは慌てて振り返った。
「兄様……」
その日のマヒトは白綾絹のブラウスに海の青のズボンを合わせていた。少年らしく清々しい装いの兄に、マーレイは微笑む。
柱の陰、人の目の死角に隠れていたのに、何故兄はあっさりと自分を見つけたのだろうか? もしや、上手に隠れていたつもりなのは、自分だけなのだろうか?
マヒトは十三になったばかりだった。それでも、小さな紳士よろしく、果実酒を差し出す。
「わたくし、気分の悪そうな顔をしていたのでしょうか? 兄様」
差し出されたグラスを受け取り、小さな声でマーレイは問う。少しばかり、不安な口調で。隠れている時でさえ、笑顔を絶やさないようにしていたつもりなのだけれども……誰に見つかっても構わないように。
「いや、今日はずっとにこにこ笑っていたけれど……兄としての勘かな。今日の僕の姫君には生気がない。さぁ、お飲み。いい子だから。心配しなくても大丈夫だよ。子供でも飲める、酒とは言えない酒だから」