みどり姫
 勉学は人並、運動はからきし駄目。吃音で、肥満児で。
 綺麗……それは誉め言葉。
 物心ついた頃から、どれ程その言葉が欲しかった事だろう。世辞でない賞賛が、どれ程。
 濡れたように煌めくみどりの瞳の、姫君。
 その瞳に嘘が無い事は、人一倍、人の心の嘘を見抜く術に長けているヴィッシュには、よく、解った。
「どうかなさったの?」
 無邪気に、でも何処か心配そうにマーレイが問う。
「ちっ違う」
 この口はこの舌は、何故ちゃんと言葉を紡ぎ得ないのだろう!?
 まどろっこしさに、ヴィッシュは生まれて初めて、焦げそうな程の苛立ちを覚えた。
 何もかもをも特に心から欲した事などない。どうせ無理だと諦めてしまって。
 だが、今、ヴィッシュは切に願う。

 貴女、貴女と喋りたい! マーレイ姫!!

 小さな王子は、恋に落ちたのだ。

 ヴィッシュはまだ十二歳だった。
 だけれども、人に本気で恋をする時に歳などどれ程の問題になるだろう。
 それはヴィッシュの宝物になる。
 熱と共に、ヴィッシュはマーレイの姿を己の目に焼き付けようとした。
 その時である。
「あ!」
 不意にマーレイが上げた声に、ヴィッシュはびくっとなる。
「どっどっど、どう、したの?」
「…ご免なさい。驚かせてしまったみたいですわね。違いますの、わたくし、早く戻らなければなりませんの。わたくしが戻ってこない事に皆が不審を覚えて、探し出したりし始めたら、厄介ですもの」
 そういったマーレイは自分の手のありかに気付いて真っ赤になった。
「ご免なさい、わたくしったら恥ずかしい事を。お許し下さいね。べたべた触ってしまって」
 謝りながらヴィッシュの頬から手を離し……頬から温もりが去った事をヴィッシュは残念に思った……、マーレイは自分の衣装の端を持ち上げた。
「わたくしと一緒に、お戻りになります? 人に見られぬ内に、戻れますわ」
 空いた片手を、マーレイは差し出す。
 震える手で、ヴィッシュはその真っ白な手を取った。マーレイはその手を、力強いとさえ言える力で引っ張って行く。
 『有難う、マーレイ姫』そういいたいのに言葉が胸に詰まってしまって窒息しそうだ。
 『マーレイ姫』。
 彼女の名を口にのせる事が出来ない。ならば……どうしたらいい?
 気付けば、熱に浮かされたかのように、彼は叫んでいた。
「みどり姫……!!」
 前を向いていた少女は、驚いたように振り返る。
 『みどり姫』
 その言葉は少女の心に、波紋を生んだ。
 心地良い波の広がり。
 振り返って、そうして、一瞬だけまた微笑んだ。
 ヴィッシュが彼女に出会ってから、彼女は唇の端を下げきった事があったであろうか。
 ヴィッシュの瞳を綺麗だと言ってくれたその時は、その唇だけでなく瞳まで使って微笑んでくれたけれども、だけれども、今程美しく彼女は笑ったか?
 いいや、今の笑みが一番美しい。
 赤い唇から、真珠のような歯までもが、覗いていた。

 アザルディーンでは、王族の女性は、二つ名を持つ習慣がある。
 王子達や貴族の子息達、そして時には吟遊詩人からの言葉を一つ、選び取るのだ。
 例えば、マーレイの母、リウシェンダが『暁の王妃』と、呼ばれるように。
 例えばアナシアが『紅薔薇姫』と、呼ばれるように。

 幼いマーレイ・ヴェルクラム・リン=ダラ・スーチェアはこの日、その二つ名に『みどり姫』という名を選んだのだった。
 誰にその名を与えられたかを、マーレイは生涯語らなかった。
 だが、その飾り気の無い二つ名は瞬く間にアザルディーン中に広がる事となる。
 その美貌と共に。
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