みどり姫
□第三章・蜜より甘い刹那
 汗で身体に張り付くような乗馬服を脱ぎ捨てると、マーレイは解放されたような気分になった。
 髪までもが何となく気持ち悪く、風呂に入るなり水を浴びるなりしたかったが、とてもそんな時間はなかった。
 ぎりぎりまで馬の背にしがみついていたので、もうすぐ朝食の時間だからだ。
 家族全員で食卓に着くのは、この国では当たり前の風習だ。
 遊んでいたので食事に間に合いませんでした……などというのは、許されない。自分の好きな時に寝台での食事が許されるのは、病気の時、それもそうするのが必要だと認められた時だけだ。
 マーレイの気が急く。
「シイラン、お願いだから急いで頂戴」
 マーレイが呼ぶか呼ばないかのうちに、その侍女、シイランは湯桶と柔らかいタオルを持ってきて、マーレイを喜ばせた。
 彼女はちゃんと、自分の後ろに『夕方までの衣装』を大切に抱えた侍女三人を従えている。
 シイランは十九歳。十歳の頃からマーレイに仕えている。黒髪黒瞳のシイランは、アナシアとは全く違う意味で、マーレイの大切なもの、だった。
 シイランは、マーレイに盲目的なまでの尊敬と愛を捧げていた。自らの女主人の為なら命さえ投げ出してもいいと思う程に。
 その為か、仕える女主人の心をよく理解していた。
 例えば、お茶が欲しい、と思った時にはもう、お茶がカップに注がれていたり。シイランはそんな時、「冷たいお茶になさいますか? 熱いお茶になさいますか?」とは、聞かない。聞かなくても、解っているのだ。
 湯気を立てる桶を見たマーレイは、心底嬉しそうに微笑んだ。
「お前は本当に素晴らしいわ、シイラン。わたくしが欲しいものを、よくわかっているのね」
「まぁ、姫様、有難うございます。私……喜んで頂いてとても嬉しゅうございます」
 顔をぱぁっと輝かせてシイランが言う。
 美しい主に仕えることが出来るのは、何という幸せだろう。ましてや、その主人から優しい言葉を賜る事が出来るなんて。
 マーレイは、自分に仕える人間に、感謝の言葉や誉め言葉を決して忘れない。そして微笑みと。
 だから、マーレイに仕える者達は『ダラ・スーチェアの第一王女』の為にと言うよりは『マーレイ』という少女の為に心を砕くのだ。
 だが、感激しながらも、シイランは素早くマーレイの下着に手をかけていた。
 それを脱がすと、タオルを熱い湯に漬け、そして堅く絞る。身体を清められる心地良さに、マーレイはうっとりとした。
 至極丁寧に、そして素早く身体を清め上げると、シイランは次に、マーレイに新しい下着を着せかけた。
 白絹のその下着に袖はなく、肩から繊細な紐で吊るようになっていた。胸元の所から切り替えになっていて、何段ものレースが膝まで続いている。背中の方は、紐で編み上げた様になっていたが、それはコルセットの様に身体を無理矢理に締め上げる為のものではなく、身体の線がごく自然な美しさを浮かび上がらせるようになっているに過ぎない。
 しかし、その下着の豪奢さはどうであろうか。ただのレースではない。世界で最も珍重されているスーリエル・レース。ダラ・スーチェアが世界に誇る物の一つだ。
 下着姿のマーレイを見て、シイランは微笑む。美しいものは美しい人へ。その繊細な下着が着こなせる程に美しいマーレイを、シイランは誇りに思う。わが主だ、と。
 スーリエル・レースは特別な日のドレスにしか、普通はあしらわれる事はない。普段のドレスにあしらうには、少しばかり躊躇してしまう様な、そんな高価で繊細で美しい物を、十四歳の王女は下着にしている。誰に見せるでない年頃の少女が。
 シイランは次に、白地に小花模様の胸着を着せかけた。すこし緑がかった青の小花はとても愛らしい。
「今朝の姫様は、頬が上気してらして、とてもお綺麗」
 歌うように、シイランが言う。
「ですから、淡い色合いの物がとてもお似合いになると思いましたの、私」
 ふんわりとした柔らかな薄地のスカートを何枚も重ね履く。そのスカートにはスリットが入っている。足を動かしたときに、ちらちら覗くようにと。一番表の布地は作りたての生クリーム。とろんとした、不思議な質感の物を。
< 15 / 18 >

この作品をシェア

pagetop