みどり姫
控えの間で不寝番を務めていた侍女に、アナシアは来客が来た時の為の鈴を鳴らさせなかった。
まだ、早い時間である。日が漸く昇ろうかという頃。
マーレイ……、この国の第一王女にして従妹、そして義理の妹でもある少女の部屋の前で、アナシアは逡巡した。
ノックはした方が良いかしら?
だがすぐに、アナシアは否、の結論を出した。眠っていたら、起こしたくない。時間的にも、まだ眠っている確率が高い。
それでも、一国の王女の部屋である。如何に身内とはいえ、声はかけた方が良いだろう。
「マーレイ」
眠りの妨げにならぬようにとごく小さな、だが凛とした声で、可愛く思う王女の名を呼び扉を開け───。
そして、息を飲んだ。
アナシアは凍り付く。
「なぁに? アナ」
窓辺から頭だけ背後を振り返り、無邪気にそう問うマーレイは、鮮やかな金色に彩られた朝焼けの光の中、微笑んでいる。
その姿は、神々しくさえ、あった。
長い黒髪は光に透け、みどりの瞳は煌めいている。頬は薔薇色で、赤い唇が笑みを刻む。
───まるで『人』ではないような───。
下半身から力が抜け、膝が自然と崩れおれそうになるところを正気に返ったのはマーレイの呑気な声だった。
「乗馬服を着ているのね。これから遠乗りに行くの? 勿論、わたくしを誘いに来てくれたのでしょう?」
「マーレイ・ヴェルクラム・リン=ダラ・スーチェア!」
アナシアはようやっと叫んだ。
確かにマーレイのその姿は美しかった。
だがしかし……!
風に当たり、すっかり気持ち良くなってしまったマーレイは窓の桟に腰掛け、宙にばたばたとその足を遊ばせていたのだ!
ダラ・スーチェアの第一王女が。
マーレイ・ヴェルクラムが!!
「下りてらっしゃい」
低い声で、アナシアは命ずる。
「もうちょっとだけ。ねぇ、アナもこちらにいらっしゃいよ。こんな見事な朝焼け、滅多に見られないわ」
そういうマーレイに、アナシアは静かに近付いていく。ただし、朝焼けを見るために、ではない。
きききっと、左の眉だけを器用に上げたアナシアは、怒っていた。
その鳶色の瞳が、剣呑な光が煌めく。
窓辺に寄り、右手を差し伸べるとアナシアはもう一度、言った。
「下りてらっしゃい」
「アナ……そんな顔しないで。風に当たっているだけではないの」
その言葉に、激情家であるアナシアの忍耐の糸がぷちりと切れた。
「マーレイ!」
アナシアは強い口調で呼んだ。
「一国の王女がなさるには充分過ぎるほど危ない行動をなさっていますわ、王女様。この部屋が何階にあるか、ご存じでいらっしゃいますでしょう 」
「三階だわ…」
アナシアの剣幕に恐れを成してマーレイは答えた。二人っきりでいるのに、もう『従姉』ではなく『姉』なのに、大好きなアナシアは昔の様に敬語を使っている……とてもとても、怒っている。
マーレイは差し出された手を取った。そしてそのまま、アナシアの胸に飛び込む。
抱きとめて、その危ない場所からおろしてやって、やっとほっとしてアナシアは微笑む。
笑うとアナシアはとても可愛らしいとマーレイは思う。そして、もう怒ってはいないのだろうかと、心配になる。
国王たるサディンも、王妃たるリウシェンダも、そして兄王子たるマヒトも、このどうしょうもなく美しい王女に本気で怒れはしないのだがアナシアだけは違った。
アナシアはサディンの妹、エアルの娘で、エアルが儚くなってからは、サディンが養女とした。だからマーレイには義理の姉にあたる。
マーレイはこの三つ年上の、丁度マヒトと同じ年の従姉を、まるで本当の姉のように慕い、愛していた。敬語は嫌いだからと言うアナシアは、マーレイやマヒトには普段は自分も敬語を使わないし、使わせない。
そんな彼女に、いつもいつも、マーレイは甘えてしまう。父にするよりも母にするよりも、甘えてしまう。
好きだから、だから。