みどり姫
「あんまり、怒らないでね? ね? 大好きなアナ…」
 すりすりと、マーレイはアナシアの胸に顔をすりつける。
 そんなマーレイをアナシアはそっと抱き締めた。
「アナ?」
 もう怒ってはいないの? と言いたげなマーレイをアナシアは更に抱き締める。
 さっきのマーレイはまるで女神様のようだったわ……。でも、こうして腕の中にいるマーレイは……マーレイだわ。
 温かくて、柔らかくて、良い匂いのするマーレイ。
 だが、ここで甘やかしてはいけない、とアナシアは思った。ちゃんと叱らねば。
 しかし、どうしたものだろう。
 叱ると言っても、どうやって叱れば良いのか、アナシアにはてんで見当がつかなかった。
 マーレイは、今、十四歳。
 マーレイが幼い時には、容赦なくその尻を叩いたものだけれど。社交界デビューも決まった乙女にどう仕置きすれば良い?
 でも、先程の光景には息が詰まりそうだった。
「仕方がありませんわね、姫様。今回だけですわよ? でもわたくし、心臓が止まるのではないかと思う程、先程の光景には恐怖しましたのよ? ですから、次に窓の桟の部分に腰掛けていらっしゃるお姿なんか見かけましたら、柳の鞭でお尻をひっぱたいて差し上げますわ。ぱんぱんに腫れたお尻では、食卓にも着けないでしょうし、椅子にも座らず、立ったままお食事を摂るだなんて不作法、まさか『みどり姫』たる貴女が犯す筈、ありませんわよね?」
 片腕はしかとマーレイを抱き締めたまま、空いた片手で撫で撫で、撫で撫で、頭を撫でながらひどく優しい声音でアナシアは言う。マーレイは黙って耐えていた。だが。
「そうなったら、涙を堪えながら無理矢理椅子に座られる事になるのかしら? でもそうなったら、お養父様やお養母様、それにマヒトにもわたくし、報告しなければならなくなりますわね。二の腕どころか足まで丸だしの寝間着姿で窓の桟に座っていらしたのですわ……って」
「兄様に言っては嫌よ!」
 がばっとマーレイは顔を上げた。アナシアの手を乱暴にはねのけ、抱擁から逃れる。
 興奮している所為だろう、みどりの瞳が煌々と煌めく。
「お外が気持ち良くて、わたくし、座っていただけだわ! 意地悪なアナ」
「でも、危ないわ。ここの高さは解っているでしょう? ここから落ちたら下が柔らかい芝生でも、確実に死ねるわよ? 可愛いマーレイ」
 アナシアの言葉が、いつもの柔らかいそれに戻っている。
「落ちないわよぅ」
 小さな声でぽそりとマーレイは抗議するが、その声に力強さはない。
 もう何年も前から、早起きをして、天気の良い日は窓の桟に座って暁の空を見ていた。紫を経て、金色に染まる空を。
 だがそれは、王女としての自分がしてはいけない事だと、本当はマーレイも知っていた。
 落ちる落ちないの問題ではない。危うい行動を、危うく見える行動を、王女たる自分は取ってはいけないのだと、本当は誰より知っていた。ただ、アナシアには甘えてしまうのだ。素直に謝ることが出来ない。
「もうしないわ、アナ、本当よ。だから兄様に言いつける必要なんてないわ。そのかわり、窓の外を眺めるのに丁度良い高めの椅子を用意してもらえない? わたくし、この窓の外から見える朝の景色が、とても好きなの」
「解ったわ、マーレイ」
 アナシアは目を細める。優しく笑う。
 その顔を見て、マーレイはとても嬉しくなった。
「アナ、アナ、わたくし、豪華で堅い大理石の彫刻の椅子なんて嫌ぁよ。ふこふこ沈んでしまう様な天鵞絨の椅子なんて論外だわ、眠ってしまうわ。木の椅子が良いの。絶対よ」
「解ったわよ、私の小さな『みどり姫』。任せなさい。でもこんな事している場合ではないわ。私、貴女を呼びに来たのに」
 すっかり忘れていた、とアナシアが小さく叫ぶ。
「呼びに来たって……、遠乗りに?」
 マーレイは問うというよりも確認する為に言葉を発した。
 『紅薔薇姫』とも呼ばれるアナシアは、栗色の長い髪を編み、赤い乗馬服に身を包んでいる。その姿は美しく、その二つ名に恥じぬものだった。
 そのアナシアが唐突に急かす。
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