トイレキッス


その日の夜、洋平の家に藤沢から電話があった。


「ああ、ごめんなさい」


受話器の向こうで、藤沢はいきなり泣きそうな声をあげた。


「どうしたんですか?」


「麻見君、いまからわたしの家に来てくれん?」


切羽詰まった口調だ。


「何かあったんですか?」


「うちの飼い犬が、衣装の上で遊んで、衣装をぼろぼろにしてしもたんよ」


「ええ?」


洋平が大声をだすと、藤沢はまた、ごめんなさい、と言ってつづけた。


「すぐ直すつもりなんやけど、半分くらいだめになってて、わたしひとりの手じゃあ、明日に間に合いそうにないんよ。それで」


「わかりました。すぐ行きます」


受話器を置くと、すぐさま家を出て、藤沢の家に向かった。


藤沢の家は材木業を営んでいた。住居の隣に大きな作業場があり、昼間はいつも、木を切ったり削ったりする音がやかましく響いている。周囲の道路には、作業場から飛びだした木の粉がたくさんちらばっている。
藤沢の家に着き、玄関の呼び鈴を鳴らすと、パジャマ姿の藤沢が出てきた。まだ体調が回復していないらしく、顔色が悪い。
中に入ると、廊下に一匹の犬が寝そべっていた。大きな黒い犬だった。


「この犬がやったんですか?」


「うん」


犬はふたりの視線など気にせずに、あくびをもらしていた。


藤沢に案内されて、洋平は和室に入った。そこのテーブルには、二台のミシンが用意されていた。畳の上に、破れた衣装がならべられている。
衣装の破損具合はかなりひどかった。中には一から作りなおさないといけないものもいくつかあった。ふたりはすぐに作業にとりかかった。
破損が大きいものから順番に、ていねいに修繕してゆく。ふたり共無言で手を動かした。ふたつのミシンの音だけが、部屋の空気をゆらした。




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