胸が締め付けられるほど「好き」
ライバルとも、呼べないか
 大人女子がメインになっているマンガや小説で、主人公が上司とデキる話はよくある。

 だけど、現実はそう、うまくはいかない。

 イケメンで仕事ができて、その上クールで人望が厚い役職付の上司が、ただの部下になびくわけなんかない。

 大抵、指くわえて見てるのが精一杯で、告白なんかしても散るのが見えてて怖くてできない。

 明るくて可愛らしい、人気の女子社員と仲良さそうにしているのを横目で気にして、羨むのが常。

 私のことなんか、気にしてくれるわけがない。

 今日、書類を渡す時に、指が触れたことなんか知る筈もない。
 

 四対商事、天然ガス事業本部のグローバルガス事業部。

 2年前、大学を卒業してここへ就職した相模 愛子(さがみ あいこ)はデスクの前に座り両手でマグカップを持ったまま、ふうっと溜息をついた。

 期限付きでも、そうでなくても提出書類は早めに出し、頼まれた仕事はもちろん、自ら取ってきた仕事も精度を上げてこなしていくことに命をかけていると言っても過言ではない。

 残業は深夜まで続くことも多々あり、むしろそれらは自ら志願して行っている。

 部長代理に褒められたいが、ために。

 温和な部長はよく褒めてくれるが、そうじゃなくて。クールで近寄りがたく、愛想もそこそこの女子に絶大な人気を誇る、部長代理に。

「愛子ちゃん」

 心の内が、外へ漏れていなかったかとドキリとしながら後ろを振り返る。

「今日忘れてないよね? 送別会。8時」

 菅野 沙紀(かんの さき)はつややかな肩まである黒髪をさらりと流しながらにこやかに話しかけてくる。ピンクの唇もルージュが嫌味なく、今日のベージュピンクのスカートとぴったりマッチしていて抜群に女の子らしい。

「あっ、はい。大丈夫です」

「昨日も遅くまで残ってたんだってねー。あのやる気はみんな買うべきだって昨日部長が言ってたよー」

「そんな……とんでもないです……」

 相模は、笑みを隠しながら俯いた。

「私も夜頑張ればもっと仕事が早く片付くのになぁ。若いと違うわ」

「いえ、そんな……」

 若いったって、2つしか変わらないし。しかも、夜残業しなくても、朝早く来て仕事してるのみんな知ってるし。

 相模はそのままフェードアウトして、仕事に戻ろうとしたが、

「それでね……」

と、まだ話かけてくる。

「おい、菅野! 」

 少し離れた席から大きな声で呼ぶのは部長代理の夏目 寿明(夏目 としあき)だ。地方の大学を卒業してここに入社したそうだが、今の部長に目をかけられ、32歳という若さで代理にまで上り詰めた社内外誰もが注目する、知らぬ人などいない人物である。

 厚そうな胸板のがっしりとした上半身が魅力的で、首も太く、大きく顔を背けた際に見せる首の骨はなんとも色気が漂う。

 仕事熱心な趣味を持たないインドア派らしく、焼けていない肌色は、切れ長の目によく合っている。無造作ヘアらしき黒髪もあまり関心がなさそうだ。

 だが、スーツだけは拘りがあるのか上等だという噂だ。近くを通るだけで匂いが分かるヘビースモーカーぶりだが、女子には逆にその辺りも人気があった。喫煙室の窓からちらりと見える物思いに耽る横顔が恰好いいとか、渋いとか。

 それに習って相模も見に行ってみたかったが、ファンやミーハーのように遠巻きにはなれず、ただ密かに通りがけ様にちらりと横目で見ることしかできない。

 れっきとした上司を、恋愛対象として見ていることがいけないことだと半分理解しているだけに、相模はそのように扱いたくはなかった。

「はい!」

 菅野はすぐに相模のことなど忘れて、夏目の元へ向かう。

 相模はその後ろ姿をじっと見ていた。

 白いブラウスとスカートの切り替えの辺りは細く、足首も締まっている。

 腕時計も花柄が入ったどこかのブランドの限定品だと言っていたし、日々のオシャレにも抜かりない。

 男性から、抜群の人気度を誇る。

 代理からは絶大な信頼を誇る。

 そんな菅野にもしもなれたら、どんなに良いだろう。

 思い切って代理に告白して、甘えながら抱きしめられて、結婚まで持ち込んでしまうだろうか。

 そんな溜息をもう一度ついてから、パソコンのディスプレイを見る。

 なのに、菅野と話す代理の声に聴き耳を立ててしまい、作業に集中できない。

 菅野と話す時の代理は、いつもと違う。

「あぁ? なんだそれ……」

 呆れながらも笑ってその眩しい存在を見上げ、見上げられた菅野も、ファイルで口元を隠しながら無邪気に明るい声を出す。

 他の誰かと話をする時はそうじゃない。もっと無愛想で、まるで視線で物をいうかのような、痛烈ともいえる態度で……。

「あ、相模」

 相模は突然自分の名前を呼ばれたことに驚きを隠せず、目を見開いて夏目の方を向き、即返事をする。

「はい!」

 既に菅野は席に着こうとしていた。夏目に呼ばれることはこの上なく嬉しいが、菅野の後となると少し気が引ける。

「はい……」

 相模は控えめに夏目のデスクの前に立った。

 デスクの上はそれなりに片付いているが、仕事の量が半端なく、業務が遅れていることが見てとれた。しかし、さっきの菅野とのやりとりで若干、心に隙ができた、という感じだろうか……。

「山さんから指示受けてた分あったと思うけど。あれ、昨日が締切じゃなかった?」

 目が合うのを覚悟でその切れ長の目を見ていたはずなのに、合った途端、相模はすぐに逸らした。

 それは、夏目のセリフの内容のせいばかりではない。

 山根部長から指示を受けていた案件は、確か、来週の水曜が締切だったはずだ。そのつもりでスケジュールを組んでいるので、まさか、今更昨日だったんじゃなかったかと聞かれても、

「いえっあの……私がメールで指示を受けた時は来週の水曜だったと思います」

「あれっ、おかしいな。俺には昨日で来てる」

 夏目はパソコンのキーボードを叩いて、画面を確認し始めた。

「すみません、あの、今日中もちょっと厳しいかと……」

 早く見積もっても今週中が限界だ。

しかしそれよりも、そんなバカな、見間違えるはずがない! と脇の下からは冷や汗が流れ落ち、鼓動が一気に高鳴る。

「でも、来週の水曜だったと思います」

 念のために、相模はもう一度押した。

「……ちょっと俺もよく分からんが、早めに出してくれ。早いことにこしたことはない」

 あ……なんか、素直じゃない部下みたいになった?

 ミスしたと思われたくないばかりに念を押してしまったことを即後悔しながらも、相模は「はい」と小さく答えて席に戻るしかなかった。

 すぐに部長からの受信メールを確認したが、やはり来週の水曜までの締切になっている。

 相模は喉の奥から込み上げてくる熱いものを必死でこらえ、動かないディスプレイをじっと睨みながら歯を食いしばる。

 パソコン越しに菅野の華奢な背中が見えた。隣のベテラン社員と、楽しそうに談笑し、肩が揺れている。

 代理に少し眉を顰められて、泣きそうになるような私と菅野の背中は、まるで別物であり、越えることなどできないと思い知らさせているようで……。

その白い背中が疎ましくて、とても悲しくて、仕方なかった。東大経営学部を出て、残業もせずに仕事ができる彼女のその、柔らかで優しげな後姿が、忌々しくて仕方なかった。

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