胸が締め付けられるほど「好き」
手近な者をつかんで生きていくんだ
♦
絶望のあまり、食事が喉を通らないという可愛らしい芸当ができたのなら、半年先の結婚も揺るがすことかできたのかもしれない。
だけど、そんなことができるのはおそらく夏目の手中に入り込んだ菅野だけであって、やはり、私ではない。
もう会社なんて辞めてやる。
部下なんてこりごりだ。
明日付で退職届を出してやる。
送り届けてやる。
一身上の都合で。
おそらく菅野がいつも座っているであろう助手席に、業務上の一環で私を乗せた夏目は、淡々とラーメンを奢るなり、わざわざ自宅まで送り届けていとも簡単に帰ってしまったのだった。
玄関に残されたのは、私、だけ。
思い切りインターフォンを押した。
何度も、何度も。
バックの中に入っている鍵を出すのは面倒だし、インターフォンが鳴れば必ず洲崎君が出て来る。
「うるせーよ! ピンポンピンポン」
中からドアが開いたと同時に小声の怒鳴り声が聞こえてくる。
「インター……!!」
フォンくらい何回鳴らしたっていいじゃない!と言おうとして、
「こんばんは」
客人がいることに気付いた。
って今、午前十二時とっくに過ぎてるんですけど。
なんなのこの年増の女。メガネと黒髪のウェーブがやたら、それっぽくて、バカみたい。
「こんな時間に女連れ込んで何なの!?」
女を睨みつけてから靴を脱ぎ、ドスドスと中へ入る。
「えっ? ちょ……。あ、すいません。酔ってるみたい、で……?」
洲崎君の謝っている声が後ろに聞こえた。
どうせ仕事関係の人だ。そうに決まっている。
洲崎君のタイプはあぁいうのではないし、タイプは……私みたいな女だと知っている。
自室にそのまま入り、着替えることもなくベッドに倒れ込んだ。
すぐに階段を駆け上がる音が聞え、ノックもなく扉が開く。
「……俺好みの女じゃなかったからよかったけど、相手は結構カチンときて帰ったよ」
「…………」
そんなのどうでもいい。
「なにー? 酔ってる? おい、スーツ脱いでからにしろよ。皴んなるだろ」
「…………会社辞める」
枕に向かって発した。だけど入口で立ち尽くしたままの洲崎君にはその声が聞えなかった。
「何? なんだって?」
そうじゃない。聞こえてるからスリッパのまま上り込んで、枕元まで顔を近づけてくれるんだ。
「何? 会社?」
見なくても、洲崎君のことなら、その気持ちがすぐに、表情まで読める。
「辞める。絶対辞める。もう行かない」
「…………、どした? 論文どうだった? ダメだったか?」
突然撫で声になる。ちゃんと、私が落ち込んでいることを、何かあったことを理解してくれている。
「…………」
「何? あの上司に叱られたか? やっぱダメだったろ。漫画の編集が見たような論文じゃ」
頭をゆっくりと撫でてくれる。
耐えきれなくて、嗚咽が漏れた。
「でも会社辞めることはないだろ。いや、俺的には辞めてもいいぐらい働いたと思うよ? 朝から晩まで会社以外のことしてこなかったろ。
結局2年か……でもいんじゃね? まだまだ人生長いし、例えここで辞めたって先はあるよ」
震える肩を、背中をゆっくりとさすってくれる。
「……もう行かない……」
「うん、俺が許す」
何が許すだ……、笑えて、涙が急に止まった。
「…………、どした? 本当に論文ダメだったか?」
「…………、…………、結婚してた。この前辞めた子、私が嫌いだった子いたじゃん。あの子と結婚するんだって」
言った途端、強く身体を引かれた。
柔らかなシーツと私の身体の間に太い腕が入り込み、更にぎゅうっと締め付けてくる。腕が痛いくらいに、抱き締めてくる。
「だから俺にしとけって言っただろーが」
上から降り注ぐ声に、今までとは違う涙が零れた。
背中にある腕がこんなにも力強かったんだということを初めて知る。
「会社辞めて、俺のモンになっとけ」
その自信はどこからくるのかと少し笑えてくる。だけど、悪くない慰め方だ。
「あ……」
その程度だと思っていたのに、顎をとられた。
顔が急接近し、思わず顎を引いてしまう。
だからってそんな急に、キス……なんて……。
「辛い思いさせねーよ。俺なら」
その大きな手で顎を取られたまま、口元で囁かれる。
「知ってんだろ。お前のためなら家も建てるし、贅沢な生活も思いのままだよ」
甘んじていたことにたった今気付かされる。私は生活費全てを洲崎君に任せきり、自らの給料を小遣い同然に扱ってこられるのはその財力のおかげだと。
「……浮気されるのは嫌」
試すように、要請する。
「知ってる」
思わず目を見た。
「知ってるよ。どうしてほしいのか」
唇と唇が、柔らかく当たった。
「お前がどうしてほしいのか知ってるに決まってんだろ。いつからお前のこと見てきたと思ってんだ。いつから……、幸せにしたいと思ってたと思ってんだよ」
「………ん………」
その言葉に飲まれるようにキスをした。洲崎君とどうこうしたいなんて考えたこともなかったのに、「お前がどうしてほしいのか知ってる」と言われてキスされて、少し笑えたけど、嫌な気持ちは全く起こらなかった。
「……ちょ……」
和やかな空気も束の間、舌の動きが快感のポイントを捉え始め、空いた手は腰や肩を撫で、それは急ぎすぎじゃ!?と自然に身体が抵抗してしまう。
「恥ずかしいよなあ。ちょっと俺も恥ずかしい」
「ちょっとなんか、言うのやめてくれない!? 余計恥ずかしいから!」
「だって、今まで普通にパンチラとか見えてたのに、これからだと意味が違ってくるから」
「パッ、パンツ見えてた!?」
慌てて顔を見て聞いた。
「見えるよそりゃ、ソファでスカートで寝そべってたら」
「…………」
「どんなパンツ履いてっかも知ってっし」
「そういうのは言わなくていい」
カチンときて、身体を捩って上半身を少し起こした。
「逃がさねーよ」
腕をとられ、すぐにシーツに飲みこまれてしまう。
「逃がさねー……」
思い切り、抱きしめられて、息苦しくなる。
「……痛い」
腕が痛いと素直に訴えた。
「悪いけどちょっと我慢して。今日は何もしない代わりに、これくらいは許して」
「…………これくらいはって」
「何、その先もいいの?」
「私がいいって言ったらするの?」
「うん」
「したくないって言ったらしないの?」
「うん」
「洲崎君って…………、そんな素直だったっけ?」
「いつもだよ!! 大抵お前の思い通りにやってやってんだろーが!!」
「あはははは、ゴメン、ゴメン。…………」
私は目を閉じて、その温かさをただ、堪能した。
「…………愛子」
声が本気だとすぐに分かった私は、すぐに目を開いた。
「会社、辞めろよ。辞めにくかったらそのままでもいいけど。仕事なんていくらでもあるよ」
「トーン張り?」
「じゃなくても、アシの世話とか、俺の給料の管理とか、編集との取次とか、スケジュール管理的なことがたくさん」
「……いつもそれ誰がしてんの?」
「誰もしてねーよ!! 最悪俺がやってるだけ。そういうのはその……、奥さん的な人がやるんだよ、普通」
「知ってる」
「じゃ、聞くな!!」
「キャッ!!」
思い切りお尻を掴まれて、思わず手を払いのけた。
「もう、スケベ」
「どっちが、お前が押し付けてきたんだろ?」
「きてないよ!!…………、漫画家の奥さんかぁ……」
「嫌なら転職するよ?」
「何でよ。そんなわけにいかないじゃん」
私は笑っ言ったが、洲崎君は笑わなかった。
「言ってるじゃねーか。お前を幸せにするって。お前がいいようにしてやるんだよ。これから先、ずっと。
お前は自分のしたいことだけしてればいいんだよ。まあ、その中でも許せる範囲だってゆんなら、俺は漫画描いて稼ぐけど」
「…………、それってさ、どういう気持ち?」
分かっているのに、やっぱり聞きたい。
「聞きたい?」
洲崎君も半分笑っている。
「聞きたい、かも……」
私は一度目を閉じ、そして開いてからきちんと目を見て聞いた。
「俺はお前のために生きていくんだよ。信じるのはお前だけ。愛子……だけなんだよ」
後日、論文の結果は小冊子発送の元発表された。
表紙の次の目次には最優秀者、続いて20名ほどの優秀者の名前と会社名が掲載されていた。
順に名前を目で追った。あんなに夏目に褒められたんだ、必ず載っているはずだと信じて。
何度も見直しした。
なのに、見慣れた私の名前を確認することはできなかった。
一生の全貌が見えるはずだったたった一冊の小冊子に、結局私は夢を見たにすぎなかった。
絶望のあまり、食事が喉を通らないという可愛らしい芸当ができたのなら、半年先の結婚も揺るがすことかできたのかもしれない。
だけど、そんなことができるのはおそらく夏目の手中に入り込んだ菅野だけであって、やはり、私ではない。
もう会社なんて辞めてやる。
部下なんてこりごりだ。
明日付で退職届を出してやる。
送り届けてやる。
一身上の都合で。
おそらく菅野がいつも座っているであろう助手席に、業務上の一環で私を乗せた夏目は、淡々とラーメンを奢るなり、わざわざ自宅まで送り届けていとも簡単に帰ってしまったのだった。
玄関に残されたのは、私、だけ。
思い切りインターフォンを押した。
何度も、何度も。
バックの中に入っている鍵を出すのは面倒だし、インターフォンが鳴れば必ず洲崎君が出て来る。
「うるせーよ! ピンポンピンポン」
中からドアが開いたと同時に小声の怒鳴り声が聞こえてくる。
「インター……!!」
フォンくらい何回鳴らしたっていいじゃない!と言おうとして、
「こんばんは」
客人がいることに気付いた。
って今、午前十二時とっくに過ぎてるんですけど。
なんなのこの年増の女。メガネと黒髪のウェーブがやたら、それっぽくて、バカみたい。
「こんな時間に女連れ込んで何なの!?」
女を睨みつけてから靴を脱ぎ、ドスドスと中へ入る。
「えっ? ちょ……。あ、すいません。酔ってるみたい、で……?」
洲崎君の謝っている声が後ろに聞こえた。
どうせ仕事関係の人だ。そうに決まっている。
洲崎君のタイプはあぁいうのではないし、タイプは……私みたいな女だと知っている。
自室にそのまま入り、着替えることもなくベッドに倒れ込んだ。
すぐに階段を駆け上がる音が聞え、ノックもなく扉が開く。
「……俺好みの女じゃなかったからよかったけど、相手は結構カチンときて帰ったよ」
「…………」
そんなのどうでもいい。
「なにー? 酔ってる? おい、スーツ脱いでからにしろよ。皴んなるだろ」
「…………会社辞める」
枕に向かって発した。だけど入口で立ち尽くしたままの洲崎君にはその声が聞えなかった。
「何? なんだって?」
そうじゃない。聞こえてるからスリッパのまま上り込んで、枕元まで顔を近づけてくれるんだ。
「何? 会社?」
見なくても、洲崎君のことなら、その気持ちがすぐに、表情まで読める。
「辞める。絶対辞める。もう行かない」
「…………、どした? 論文どうだった? ダメだったか?」
突然撫で声になる。ちゃんと、私が落ち込んでいることを、何かあったことを理解してくれている。
「…………」
「何? あの上司に叱られたか? やっぱダメだったろ。漫画の編集が見たような論文じゃ」
頭をゆっくりと撫でてくれる。
耐えきれなくて、嗚咽が漏れた。
「でも会社辞めることはないだろ。いや、俺的には辞めてもいいぐらい働いたと思うよ? 朝から晩まで会社以外のことしてこなかったろ。
結局2年か……でもいんじゃね? まだまだ人生長いし、例えここで辞めたって先はあるよ」
震える肩を、背中をゆっくりとさすってくれる。
「……もう行かない……」
「うん、俺が許す」
何が許すだ……、笑えて、涙が急に止まった。
「…………、どした? 本当に論文ダメだったか?」
「…………、…………、結婚してた。この前辞めた子、私が嫌いだった子いたじゃん。あの子と結婚するんだって」
言った途端、強く身体を引かれた。
柔らかなシーツと私の身体の間に太い腕が入り込み、更にぎゅうっと締め付けてくる。腕が痛いくらいに、抱き締めてくる。
「だから俺にしとけって言っただろーが」
上から降り注ぐ声に、今までとは違う涙が零れた。
背中にある腕がこんなにも力強かったんだということを初めて知る。
「会社辞めて、俺のモンになっとけ」
その自信はどこからくるのかと少し笑えてくる。だけど、悪くない慰め方だ。
「あ……」
その程度だと思っていたのに、顎をとられた。
顔が急接近し、思わず顎を引いてしまう。
だからってそんな急に、キス……なんて……。
「辛い思いさせねーよ。俺なら」
その大きな手で顎を取られたまま、口元で囁かれる。
「知ってんだろ。お前のためなら家も建てるし、贅沢な生活も思いのままだよ」
甘んじていたことにたった今気付かされる。私は生活費全てを洲崎君に任せきり、自らの給料を小遣い同然に扱ってこられるのはその財力のおかげだと。
「……浮気されるのは嫌」
試すように、要請する。
「知ってる」
思わず目を見た。
「知ってるよ。どうしてほしいのか」
唇と唇が、柔らかく当たった。
「お前がどうしてほしいのか知ってるに決まってんだろ。いつからお前のこと見てきたと思ってんだ。いつから……、幸せにしたいと思ってたと思ってんだよ」
「………ん………」
その言葉に飲まれるようにキスをした。洲崎君とどうこうしたいなんて考えたこともなかったのに、「お前がどうしてほしいのか知ってる」と言われてキスされて、少し笑えたけど、嫌な気持ちは全く起こらなかった。
「……ちょ……」
和やかな空気も束の間、舌の動きが快感のポイントを捉え始め、空いた手は腰や肩を撫で、それは急ぎすぎじゃ!?と自然に身体が抵抗してしまう。
「恥ずかしいよなあ。ちょっと俺も恥ずかしい」
「ちょっとなんか、言うのやめてくれない!? 余計恥ずかしいから!」
「だって、今まで普通にパンチラとか見えてたのに、これからだと意味が違ってくるから」
「パッ、パンツ見えてた!?」
慌てて顔を見て聞いた。
「見えるよそりゃ、ソファでスカートで寝そべってたら」
「…………」
「どんなパンツ履いてっかも知ってっし」
「そういうのは言わなくていい」
カチンときて、身体を捩って上半身を少し起こした。
「逃がさねーよ」
腕をとられ、すぐにシーツに飲みこまれてしまう。
「逃がさねー……」
思い切り、抱きしめられて、息苦しくなる。
「……痛い」
腕が痛いと素直に訴えた。
「悪いけどちょっと我慢して。今日は何もしない代わりに、これくらいは許して」
「…………これくらいはって」
「何、その先もいいの?」
「私がいいって言ったらするの?」
「うん」
「したくないって言ったらしないの?」
「うん」
「洲崎君って…………、そんな素直だったっけ?」
「いつもだよ!! 大抵お前の思い通りにやってやってんだろーが!!」
「あはははは、ゴメン、ゴメン。…………」
私は目を閉じて、その温かさをただ、堪能した。
「…………愛子」
声が本気だとすぐに分かった私は、すぐに目を開いた。
「会社、辞めろよ。辞めにくかったらそのままでもいいけど。仕事なんていくらでもあるよ」
「トーン張り?」
「じゃなくても、アシの世話とか、俺の給料の管理とか、編集との取次とか、スケジュール管理的なことがたくさん」
「……いつもそれ誰がしてんの?」
「誰もしてねーよ!! 最悪俺がやってるだけ。そういうのはその……、奥さん的な人がやるんだよ、普通」
「知ってる」
「じゃ、聞くな!!」
「キャッ!!」
思い切りお尻を掴まれて、思わず手を払いのけた。
「もう、スケベ」
「どっちが、お前が押し付けてきたんだろ?」
「きてないよ!!…………、漫画家の奥さんかぁ……」
「嫌なら転職するよ?」
「何でよ。そんなわけにいかないじゃん」
私は笑っ言ったが、洲崎君は笑わなかった。
「言ってるじゃねーか。お前を幸せにするって。お前がいいようにしてやるんだよ。これから先、ずっと。
お前は自分のしたいことだけしてればいいんだよ。まあ、その中でも許せる範囲だってゆんなら、俺は漫画描いて稼ぐけど」
「…………、それってさ、どういう気持ち?」
分かっているのに、やっぱり聞きたい。
「聞きたい?」
洲崎君も半分笑っている。
「聞きたい、かも……」
私は一度目を閉じ、そして開いてからきちんと目を見て聞いた。
「俺はお前のために生きていくんだよ。信じるのはお前だけ。愛子……だけなんだよ」
後日、論文の結果は小冊子発送の元発表された。
表紙の次の目次には最優秀者、続いて20名ほどの優秀者の名前と会社名が掲載されていた。
順に名前を目で追った。あんなに夏目に褒められたんだ、必ず載っているはずだと信じて。
何度も見直しした。
なのに、見慣れた私の名前を確認することはできなかった。
一生の全貌が見えるはずだったたった一冊の小冊子に、結局私は夢を見たにすぎなかった。