胸が締め付けられるほど「好き」
アプローチの仕方は人それぞれでいい
♦
「ああぁ、上がった上がった…………」
およそ、5時間ぶりの室外の澄んだ空気で干からびた身体を癒してやる。
洲崎は玄関先でアシスタントを見送ると、大きく伸びをしながら真っ直ぐリビングに向かった。もちろん、ダイニングテーブルで愛子が昼飯を食っていると分かって話しかけているのである。
「おい、飯くらいまともに食えっての」
俯いて雑誌を読みながら飯を食っていた愛子は、口を動かしながら一瞬顔を上げた。仕事の時のスーツとは違う、休日のホームウェアはゆとりのある薄手の服が多く、あまりじろじろ見ていると身体のラインが透けそうで怖い。
「うん……」
レンジでチンした冷凍チャーハンをスプーンで頬張りながら経営雑誌を読む姿に、自分でも行儀が悪いと思ったのか、愛子はすぐに雑誌を閉じた。
「何? 月刊トレンディ? 流行物か?」
雑誌の表紙を見ながら、冷蔵庫を開けた洲崎は、「何食おっかなぁ」と呟く。
「これいる? やっぱいらない」
愛子は食べかけのチャーハンを、簡単に人に差し出した。
「食えよ、最後まで。半分以上残してんだろーが。そしてその残りを俺に食わそうとするな」
冷蔵庫に材料は豊富にあったが、何せ締切開けで体力はおろか、ろくに作る気がしない。
「だって味が濃いんだもん。いらないなら捨てるよ?」
「……しゃーねーなぁ」
言いながらも、素早く空腹が満たせることにそれなりに満足した洲崎は、簡単に愛子の隣に腰かけ、スプーンごと皿を奪った。
「あのねぇ、私今度、会社で選ばれた人しか受けられない講習受けるの」
洲崎は既に半分ほど食べたチャーハンが口の中にまだ残っているのにも関わらず、
「選ばれるってどんな対象で?」。
「えっとぉ……。まあ私は自己推薦が通った形なんだけど、真面目に講習受けられそうって人しか受けさせてくれないわけ」
「ふぅーん」
洲崎は、更に仕事にのめり込んでいく愛子に溜息半分で相槌を打った。
「会社、どのくらいの年齢の人が多いの?」
「えっ? 会社? うーんどうだろ」
「じゃあ今の部署は?」
「うーん。女の人は私より2こくらい上の人が3人いるけど、後はちょっと上か、ずっと上」
「産休とれるのか? まあ大手だからそういうとこはちゃんとしてるか」
「え? うんまあ、とれるみたい……」
「あれだぞ。お前もそろそろ結婚とか、出産とかそういうことを考えなきゃいけない年になってんじゃねえの?」
愛子の性格上、あまり強く言い過ぎると反発を買うだけだ。
今までこのような話はさらりと、何かの会話の繋がりでしたことしかない洲崎は、様子を伺いながら軽く出した。
「いやまあ、全然考えてないわけじゃないけど。
だって、相手が必要なことだし。そんな1人じゃできないからタイミングもあるし」
「……付き合ってる奴とかいねーの? いねーと思うけど、その忙しさじゃ」
洲崎は無心で、愛子が口づけたコップの水をそのまま飲んだ。
「それはお互い様でしょ!! 付き合ってる奴とかいねーの? いねーと思うけど、その忙しさじゃね」
「……俺はいるよ」
「うそぉ!!!」
愛子は大声を出して、素早く俺を捉えた。
「何? 彼女くらいいるに決まってんだろ。俺のこと誰だと思ってんだよ。洲崎銀次郎だよ? 有名漫画家なんだよ? 女の1人や2人、いて当然だろーが」
こういう嘘は軽くでないと後がややこしいことを知っている須崎は、ガールフレンドならね、と心の中で付け足した。
「いや、まあ、そうなんだ……」
想像以上に隣で動揺している愛子に、言い過ぎたか、とすぐに後悔する。
「いる方がいいよね。もう34なんだし。いないと逆にさびしいよね……」
「なんかその、かわいそうな人呼ばわりやめてくんない? 」
「……そうなんだ。いたんだ」
その、驚きと寂しさのような表情から、ある種の脈を感じた俺は、
「まあでも、結婚に繋がるような女じゃねーかもな。やっぱこう、生活って大事だしー。一緒にいて楽っていうのが一番だし」
「……そうだよね……」
あれ、しまった。もしかしてコイツ、俺のこと、好き?
「いやまあ、その、なんだ。まあ結婚は気のおける女がいいと思うんだ。空気のような」
「空気のようなってなんか違くない?」
「違うか……。なんか……」
何気ない表情の愛子と目が合った。
「というか……」
まとわりつくような視線が、腰を引かせながらも、胸を期待に躍らせる。
「家族のような」
思い切って見つめて言った。
「家族のような? 家族になるのに家族のようなってなんかそれも違わない?」
「…………ち……違うか……」
違うか…………。その眉間の皴が、全くそうではないことを物語っているような気がした。
「どんな女の人がいいんだろうね。会社にもいるの。すっごいキャピキャピした子が。でも東大出て仕事もできて、可愛くて、細くて、明るくて、世話上手で。男って、そういうの好き?」
愛子の、なんともなさそうな雰囲気を受けて、俺はモードを元に戻した。
「人によるとは思うけど、ぶりっ子好きなヤローってあんまいない気がする。逆に地味好きの方が多いような」
「地味好き……」
「少なくとも俺はそういうのは勘弁だな。見え見えのような、猫かぶり」
「そうそう!!!! そうなのそうなの!!!! やっぱ嫌いだよね、みんな。そういうの」
「いや、みんながみんなじゃないと思うけど。そういうのが好きなヤローもいると思うよ。女でもいんじゃん。ナルシスト好きな奴。それと似てるよ」
「あそっかぁ……」
自論にすぎないが、愛子はすんなり受け入れて溜息のような相槌を打った。
「でも、あーゆーの見てると腹立つよね」
「そう?」
「なんか、上司に取り入ってるみたいな」
何か違うぞ、と違和感が走る。
「……、お前…………、好きな奴ってどんな奴?」
俺は流れでなくとなく聞く。どうせはぐらかされるだろうと思ったが、愛子の口から出たのは、
「えっ、好きっていうか、片思いっていうか。喋るだけで精一杯っていうか、毎日のように会ってるけど、見つめるだけっていうか」
え、何々この流れ!?
イキナリ核心に迫りはじめる愛子に、俺は目を見開いた。
「…………うん? そ、それって……会社の奴?」
「うん」
簡単に頷かれ、今まさに活発に動かんとしていた身体中の全細胞が停止した。
「ハッ!! 野原君!?」
気付いたと同時に慌てて発したが、
「違うよ。年下は駄目。私は年上主義」
「え、いくつくらい年上?」
まさか俺より上じゃねーだろーな。
「32。私より、8こ上」
「俺より下じゃん!!」
「うん、そうだね」
そうだねって……まあ、そりゃそうだろーけどッ。
愛子はそれが何だとでもいいたげに、冷静に平たい目で見てくる。
「えっ、どんな奴? 上司? 課長とか部長とか。いや、部長はないか、その若さで」
会社に勤めたことのない洲崎だが、年功序列でいけば、おそらく32だと班長的な役割くらいが精一杯なのではないかと予想する。
「部長代理。偉い人だよ。若いのに早出世。人気あるけどね……。
んでね、私、喋るの精一杯なの! だから今回、思い切ってセミナー志願して、きっかけ作ったの。
そのセミナーが思ったより大変なんだけどね。月一回全部で12回。毎回レポート出さなきゃいけないし、最後には論文提出しなきゃだし」
「…………お前」
洲崎は残りのチャーハンをようやく全て口にいれた後、
「バッカじゃねえの?」
まだ食べきらないうちにどこも見ずに放った。
「セミナーと上司、何の関係もねーだろーが」
「関係なくないよ。仕事頑張ってるってところ見せたらいい社員だと思ってくれるし、そのセミナーについての会話もできるし。その上司も昔受けてるから話が合うし。こっちのこと気にしてくれるし。
そこが一番大きいの。やっぱり会社代表して行ってるから、気にかけてくれるの」
「ってそれ、社員としてってことだろーが」
皿に置いたスプーンがカラン、と大きな音を立てて転がった。
コップの中にもう水はなく、洲崎はよいタイミングだと思いながら席を立つ。
「そうだけど……。でも、それだっていいじゃん。最初はそういうもんだよ」
冷蔵庫をパタンと開き、ボトルを取る。それらの作業で音がうるさく、小声で言った声が聞こえないならそれでもいいやと、
「要はハナっから相手にされてねーってことだろーが」。
だが、敏感にもその声を聞きとった愛子は、
「いいじゃん別に!! そんなのこっちだって分かってるわよ!!!」
声を荒げそっぽを向いてしまう。
いや、そういうわけじゃ……。
いや、そういうわけだけれども。
「……セミナーなんて回りくどいマネせんでも、思い切って当たって砕けたらそれでいーだろ。どんだけ仕事に時間費やすつもりだよ」
「そんなことできるわけないじゃない!! サラリーマンやったことない洲崎君には何も分からないでしょ!!」
椅子をガタンと引き、立ち上がった。
久々に随分ご立腹だ。このままだとちょっとヤバい。
「まあ、そうだな。俺は漫画家しかやったことねーから、そういう雰囲気分かんねーしな。学校も出てねーし」
「…………」
愛子は顔を伏せ、後味が悪そうにそのままキッチンから出ようとする。
「でも他にいい奴いると思うぞ」
ちょっとだけ宣伝しておこうとも試みるが、
「野原君とかいうんでしょ? 私年下嫌いなの。
…………。
セミナーとか、大変なだけで、何の成果もないって思うかもしれない。けど私は…………」
しまった、泣かせたか、と心が締め付けられる。
「それでもいい。一部下としか思ってくれなくてもいい。
それでも私は、一部下でありたい」
「………………」
なんたってそんな奴のことが。
愛子はそのまま部屋から出て行ってしまう。声が少し震えていた。だけど泣いているわけではなさそうだった。ただ、自分の想いに感傷的になっているだけのようだ。
誰もいない広い部屋で溜息をついた。
タバコが吸いたい。
テーブルの上に無造作に置かれていたタバコに100円ライターで火をつけた。
次いで、換気扇も回す。
苦い煙りを肺一杯に吸い込んで、己を汚していく。
甘い蜜を追いかけているはずなのに、身体に取り込まれていくのは、苦い唾ばかりだ。
俺は無意識にこめかみ辺りをさすりながら、思う。
本気で愛子が振り向いてくれるなんて思っちゃいない。
いつか愛子の気が変わるなんて、夢見過ぎだと客観的に冷静になってもいる。
それと同時に愛子も。
上司を想い、その想いとは全く別の場所で自分自身を締め付け、苦しんでいる。
だから、いつかは。
いつか、このもがきにみんな耐えられなくなって。その辺りの物を掴んでそれなりの幸せを見つけていくのだろう。
その好む対象とは別の。何か他の物にそれなりに寄り添って、生きていくのだろう。
「ああぁ、上がった上がった…………」
およそ、5時間ぶりの室外の澄んだ空気で干からびた身体を癒してやる。
洲崎は玄関先でアシスタントを見送ると、大きく伸びをしながら真っ直ぐリビングに向かった。もちろん、ダイニングテーブルで愛子が昼飯を食っていると分かって話しかけているのである。
「おい、飯くらいまともに食えっての」
俯いて雑誌を読みながら飯を食っていた愛子は、口を動かしながら一瞬顔を上げた。仕事の時のスーツとは違う、休日のホームウェアはゆとりのある薄手の服が多く、あまりじろじろ見ていると身体のラインが透けそうで怖い。
「うん……」
レンジでチンした冷凍チャーハンをスプーンで頬張りながら経営雑誌を読む姿に、自分でも行儀が悪いと思ったのか、愛子はすぐに雑誌を閉じた。
「何? 月刊トレンディ? 流行物か?」
雑誌の表紙を見ながら、冷蔵庫を開けた洲崎は、「何食おっかなぁ」と呟く。
「これいる? やっぱいらない」
愛子は食べかけのチャーハンを、簡単に人に差し出した。
「食えよ、最後まで。半分以上残してんだろーが。そしてその残りを俺に食わそうとするな」
冷蔵庫に材料は豊富にあったが、何せ締切開けで体力はおろか、ろくに作る気がしない。
「だって味が濃いんだもん。いらないなら捨てるよ?」
「……しゃーねーなぁ」
言いながらも、素早く空腹が満たせることにそれなりに満足した洲崎は、簡単に愛子の隣に腰かけ、スプーンごと皿を奪った。
「あのねぇ、私今度、会社で選ばれた人しか受けられない講習受けるの」
洲崎は既に半分ほど食べたチャーハンが口の中にまだ残っているのにも関わらず、
「選ばれるってどんな対象で?」。
「えっとぉ……。まあ私は自己推薦が通った形なんだけど、真面目に講習受けられそうって人しか受けさせてくれないわけ」
「ふぅーん」
洲崎は、更に仕事にのめり込んでいく愛子に溜息半分で相槌を打った。
「会社、どのくらいの年齢の人が多いの?」
「えっ? 会社? うーんどうだろ」
「じゃあ今の部署は?」
「うーん。女の人は私より2こくらい上の人が3人いるけど、後はちょっと上か、ずっと上」
「産休とれるのか? まあ大手だからそういうとこはちゃんとしてるか」
「え? うんまあ、とれるみたい……」
「あれだぞ。お前もそろそろ結婚とか、出産とかそういうことを考えなきゃいけない年になってんじゃねえの?」
愛子の性格上、あまり強く言い過ぎると反発を買うだけだ。
今までこのような話はさらりと、何かの会話の繋がりでしたことしかない洲崎は、様子を伺いながら軽く出した。
「いやまあ、全然考えてないわけじゃないけど。
だって、相手が必要なことだし。そんな1人じゃできないからタイミングもあるし」
「……付き合ってる奴とかいねーの? いねーと思うけど、その忙しさじゃ」
洲崎は無心で、愛子が口づけたコップの水をそのまま飲んだ。
「それはお互い様でしょ!! 付き合ってる奴とかいねーの? いねーと思うけど、その忙しさじゃね」
「……俺はいるよ」
「うそぉ!!!」
愛子は大声を出して、素早く俺を捉えた。
「何? 彼女くらいいるに決まってんだろ。俺のこと誰だと思ってんだよ。洲崎銀次郎だよ? 有名漫画家なんだよ? 女の1人や2人、いて当然だろーが」
こういう嘘は軽くでないと後がややこしいことを知っている須崎は、ガールフレンドならね、と心の中で付け足した。
「いや、まあ、そうなんだ……」
想像以上に隣で動揺している愛子に、言い過ぎたか、とすぐに後悔する。
「いる方がいいよね。もう34なんだし。いないと逆にさびしいよね……」
「なんかその、かわいそうな人呼ばわりやめてくんない? 」
「……そうなんだ。いたんだ」
その、驚きと寂しさのような表情から、ある種の脈を感じた俺は、
「まあでも、結婚に繋がるような女じゃねーかもな。やっぱこう、生活って大事だしー。一緒にいて楽っていうのが一番だし」
「……そうだよね……」
あれ、しまった。もしかしてコイツ、俺のこと、好き?
「いやまあ、その、なんだ。まあ結婚は気のおける女がいいと思うんだ。空気のような」
「空気のようなってなんか違くない?」
「違うか……。なんか……」
何気ない表情の愛子と目が合った。
「というか……」
まとわりつくような視線が、腰を引かせながらも、胸を期待に躍らせる。
「家族のような」
思い切って見つめて言った。
「家族のような? 家族になるのに家族のようなってなんかそれも違わない?」
「…………ち……違うか……」
違うか…………。その眉間の皴が、全くそうではないことを物語っているような気がした。
「どんな女の人がいいんだろうね。会社にもいるの。すっごいキャピキャピした子が。でも東大出て仕事もできて、可愛くて、細くて、明るくて、世話上手で。男って、そういうの好き?」
愛子の、なんともなさそうな雰囲気を受けて、俺はモードを元に戻した。
「人によるとは思うけど、ぶりっ子好きなヤローってあんまいない気がする。逆に地味好きの方が多いような」
「地味好き……」
「少なくとも俺はそういうのは勘弁だな。見え見えのような、猫かぶり」
「そうそう!!!! そうなのそうなの!!!! やっぱ嫌いだよね、みんな。そういうの」
「いや、みんながみんなじゃないと思うけど。そういうのが好きなヤローもいると思うよ。女でもいんじゃん。ナルシスト好きな奴。それと似てるよ」
「あそっかぁ……」
自論にすぎないが、愛子はすんなり受け入れて溜息のような相槌を打った。
「でも、あーゆーの見てると腹立つよね」
「そう?」
「なんか、上司に取り入ってるみたいな」
何か違うぞ、と違和感が走る。
「……、お前…………、好きな奴ってどんな奴?」
俺は流れでなくとなく聞く。どうせはぐらかされるだろうと思ったが、愛子の口から出たのは、
「えっ、好きっていうか、片思いっていうか。喋るだけで精一杯っていうか、毎日のように会ってるけど、見つめるだけっていうか」
え、何々この流れ!?
イキナリ核心に迫りはじめる愛子に、俺は目を見開いた。
「…………うん? そ、それって……会社の奴?」
「うん」
簡単に頷かれ、今まさに活発に動かんとしていた身体中の全細胞が停止した。
「ハッ!! 野原君!?」
気付いたと同時に慌てて発したが、
「違うよ。年下は駄目。私は年上主義」
「え、いくつくらい年上?」
まさか俺より上じゃねーだろーな。
「32。私より、8こ上」
「俺より下じゃん!!」
「うん、そうだね」
そうだねって……まあ、そりゃそうだろーけどッ。
愛子はそれが何だとでもいいたげに、冷静に平たい目で見てくる。
「えっ、どんな奴? 上司? 課長とか部長とか。いや、部長はないか、その若さで」
会社に勤めたことのない洲崎だが、年功序列でいけば、おそらく32だと班長的な役割くらいが精一杯なのではないかと予想する。
「部長代理。偉い人だよ。若いのに早出世。人気あるけどね……。
んでね、私、喋るの精一杯なの! だから今回、思い切ってセミナー志願して、きっかけ作ったの。
そのセミナーが思ったより大変なんだけどね。月一回全部で12回。毎回レポート出さなきゃいけないし、最後には論文提出しなきゃだし」
「…………お前」
洲崎は残りのチャーハンをようやく全て口にいれた後、
「バッカじゃねえの?」
まだ食べきらないうちにどこも見ずに放った。
「セミナーと上司、何の関係もねーだろーが」
「関係なくないよ。仕事頑張ってるってところ見せたらいい社員だと思ってくれるし、そのセミナーについての会話もできるし。その上司も昔受けてるから話が合うし。こっちのこと気にしてくれるし。
そこが一番大きいの。やっぱり会社代表して行ってるから、気にかけてくれるの」
「ってそれ、社員としてってことだろーが」
皿に置いたスプーンがカラン、と大きな音を立てて転がった。
コップの中にもう水はなく、洲崎はよいタイミングだと思いながら席を立つ。
「そうだけど……。でも、それだっていいじゃん。最初はそういうもんだよ」
冷蔵庫をパタンと開き、ボトルを取る。それらの作業で音がうるさく、小声で言った声が聞こえないならそれでもいいやと、
「要はハナっから相手にされてねーってことだろーが」。
だが、敏感にもその声を聞きとった愛子は、
「いいじゃん別に!! そんなのこっちだって分かってるわよ!!!」
声を荒げそっぽを向いてしまう。
いや、そういうわけじゃ……。
いや、そういうわけだけれども。
「……セミナーなんて回りくどいマネせんでも、思い切って当たって砕けたらそれでいーだろ。どんだけ仕事に時間費やすつもりだよ」
「そんなことできるわけないじゃない!! サラリーマンやったことない洲崎君には何も分からないでしょ!!」
椅子をガタンと引き、立ち上がった。
久々に随分ご立腹だ。このままだとちょっとヤバい。
「まあ、そうだな。俺は漫画家しかやったことねーから、そういう雰囲気分かんねーしな。学校も出てねーし」
「…………」
愛子は顔を伏せ、後味が悪そうにそのままキッチンから出ようとする。
「でも他にいい奴いると思うぞ」
ちょっとだけ宣伝しておこうとも試みるが、
「野原君とかいうんでしょ? 私年下嫌いなの。
…………。
セミナーとか、大変なだけで、何の成果もないって思うかもしれない。けど私は…………」
しまった、泣かせたか、と心が締め付けられる。
「それでもいい。一部下としか思ってくれなくてもいい。
それでも私は、一部下でありたい」
「………………」
なんたってそんな奴のことが。
愛子はそのまま部屋から出て行ってしまう。声が少し震えていた。だけど泣いているわけではなさそうだった。ただ、自分の想いに感傷的になっているだけのようだ。
誰もいない広い部屋で溜息をついた。
タバコが吸いたい。
テーブルの上に無造作に置かれていたタバコに100円ライターで火をつけた。
次いで、換気扇も回す。
苦い煙りを肺一杯に吸い込んで、己を汚していく。
甘い蜜を追いかけているはずなのに、身体に取り込まれていくのは、苦い唾ばかりだ。
俺は無意識にこめかみ辺りをさすりながら、思う。
本気で愛子が振り向いてくれるなんて思っちゃいない。
いつか愛子の気が変わるなんて、夢見過ぎだと客観的に冷静になってもいる。
それと同時に愛子も。
上司を想い、その想いとは全く別の場所で自分自身を締め付け、苦しんでいる。
だから、いつかは。
いつか、このもがきにみんな耐えられなくなって。その辺りの物を掴んでそれなりの幸せを見つけていくのだろう。
その好む対象とは別の。何か他の物にそれなりに寄り添って、生きていくのだろう。