妖花
完全に無視である。
いや、あまりにもくだらぬ言い争いを哀れに思って、声を掛けないでくれているのかもしれない。
が、それにしたって、正直で直情的な江戸の民が誰一人として口を出さぬというのは、本当に珍しい。
(もしや)
菊之助の記憶の末端。
そこに、あの天井からぶら下がって来た妖を見た日が甦る。
妖と、それを面白がって突く自分と、なぜ宙を突いているの、と不可思議そうに問うてきた、
姉。
はっとして菊之助は、
「もしや、もしやお前、やっぱり……」
「機嫌は直ったかい、坊や」
花が咲いたような笑みの段田に遮られ、半開きになった口をつぐむ。
誰が坊やだ、と菊之助は悪態をつくのだった。
そんな菊之助に構わず、段田は無造作に垂れた帯を揺らして踵を返した。
「仕事の場所まで案内してやろう。ついておいで」
「どうしてお前も来るんだ。場所さえ分かればひとりで行けらあ」
「私には誰が何と言おうと、仕事の場所でやりたい事があるのだよ。しかも毎回ね」
まあ。
段田は呆れた長大息をつき、こう吐き捨てたのだった。
「今までの浪人はみな仕事を放りだし、私たちに文句だけ飛ばして逃げ去ってしまったからね。私のしたい事も、何一つできなかった」
口入れ処の稼業とは別に、段田には何かしら目的があるらしい。
しかし、菊之助の口から発せられたのは、これとは全く繋がりのない話だった。
「お前は、妖の類か?」
存外にも、段田は菊之助の質問に驚かなかった。
むしろ聞くのが遅い、とばかりに冷めきった瞳になる。
「今さらそれを言うのか」
「今さらで悪かったな」
菊之助が涙袋を下に引く。
「俺とお前が言い合ってても、周りの奴らは見えてさえいないみたいだった。それはきっと、お前が人の目に視えない妖だからだろ」
「得意げに言うんじゃないよ。妖が視える人間なぞ、そこらじゅうにいる」
正体を素っ破抜かれたことよりも、子供に得意げな顔をされたのが気に食わなかったと思しい。
段田は目つきを鋭くした。