妖花
「そりゃ、いるほうが少ないと思うけどよう。
俺ももうちびじゃないから……」
いちいち気にかけてくれなくても、大丈夫だよ。
言い募ろうとしたが、そこで百合の声が重なった。
「それは分かってるよ。
けれど、神隠しの話については前例があるじゃないか」
「前例?」
「不忍池の出会い茶屋で、客の男と女が消えた話よ。
ちょいと前に、瓦版で騒がれてただろう」
「はて」
しばらく記憶の破片を拾い集めてみる。
そう言えばそんな事件があった気がした。
菊之助が想起したのは、ちょうど二週間ばかり前の日であった。
“弁天島で男女、消える”
と、瓦版では大々的に騒ぎ立てられていた。
しかもその日から数日もの間、弁天島では人知を超えた瘴気に包まれていたという。
蟲は寄らず。
鳥も寄らず。
犬は遠くに吠えて退散し。
妖さえもそこには住まず。
踏み入れば、そこは黒き濃霧の森の如し。
このように、表現のされ方もひどい有様であった。
この件があったからこそ、百合も、おそらくは他の者たちも、ますます神隠し事件に敏感になっているというわけだ。
「でも、不忍池も柳橋もまだまだここからは遠い。
そんなに怖がるこたあ、ないよ」
薄っぺらい胸を張ってみせるものの、菊之助も心底は警戒していた。
神隠しを起こすのは妖や物の怪の類だ。
神出鬼没で、馬の何倍も速く動く者もいる。
行動範囲も格段に広いはずだ。
……と菊之助は思ったが、間違っても百合には言わぬ。
言えば百合がどんな顔をするか。
どんなことを言うか。
だいたい菊之助には予測できたからだった。