妖花
菊之助の問いを聞いていなかったのか、妖は爪でそうっと子の方角を指し、答えにならぬ言葉を返した。
「おめえさん、この方角に進むときやあ、用心するこったな」
「なんだって?」
「そっちの方の町にゃ、もう妖は一匹たりとも残っちゃいねえ。
神田に柳橋、不忍池あたりの妖どもも、でかい奴小さい奴、みいんな怖がって逃げちまったのよ」
「だから、お前らはいってえ、なにを恐れて逃げてるんだい」
いちおう、小さいものが多いといえど、彼らは妖である。
人よりも遥かに怪異に強く、そして詳しいはずだ。
そんな妖どもが、大小関係なく、一挙に逃げ出す事態である。
人の子、菊之助には到底推し量れぬほど凄絶な事なのだろう。
(いいや、待てよ)
ふと菊之助は思いたち、妖の手首をつかんで、日本橋の左の隅まで引きずって行った。
そこにしゃがんで、なんだよ、と眉をしかめる妖と視線を合わせる。
「なあ妖よ。
もしかして、本来昼間に寝転がってるはずのお前らが、こうして活発に動いて人前に出てくるのも、今の話と関わりがあるのかい」
すると妖は幾度もうなづき、おうその通りだ、としゃがれ声を低くした。
「おっかねえのなんの。
他の妖も、いくらかその野郎に襲われてなあ」
「妖を襲う?妖を獲って食うのかい。
というか、妖なのか?その野郎ってのは」
「妖でも人でもねえぜ、あんなのはよ。
とにかく発されてる気が恐ろしくて、真っ黒い煙みてえな野郎が、仲間を攫っていきやがった、と言う奴もいる」
真っ黒い煙と聞き、菊之助は昨夜の、段田の小瓶に吸い込まれた毛女郎の煙を連想する。
ああいうものの事だろうか。
「なるほどな。
それでお前も含めた妖どもは、そのおっかない野郎が怖くて逃げてきたわけか」
「気いつけな。なにせ、野郎あ……」
妖は言うなり、軽々と跳ねて日本橋の柱に飛び乗った。
「妖さえ退ける、食えねえばけもの野郎だ。
仁義だの情けだのっていうのが、まるでねえ奴らしいからよ」