妖花
八丁堀の町の中でも、菊之助が住む長屋は日本橋から近い所にあった。
長屋、といってもぴんからきりまである。
標準の広さが九尺二間。
広いものは二階もあり、狭いものは裏長屋と言い安い家賃で住める。
が、部屋の広さはざっと六尺一間ばかりで、こたつを置いたら人が三人入るのがやっとだ。
菊之助とその姉が在住しているのが、その裏長屋である。
味噌屋と本屋の間に設けられた長屋木戸をくぐり抜け、長屋路地に入る。
路地に沿って流れるどぶの上に被せられた板を踏まぬようにして進む。
「あっ。菊兄ちゃん、お帰り」
近所に住まう棒手振りのせがれ、蓮兵衛(はすべえ)が菊之助に気づいて駆け寄ってくる。
むっとして菊之助は、
「たれが兄ちゃんだ。俺あ、いつから男になったんだい」
毒づかれても、こんな会話は日常茶飯事なようで蓮兵衛は聞こえぬふりをした。
飴をしきりになめながら、鬱陶しいのか、可愛らしい若衆髷の前髪をいじくっている。
そして菊之助の腰に一瞥をくれて言った。
「なんでい菊兄ちゃん。また腰に刀なんかぶら下げてらあ。ちゃんばらでもしたのかよ」
「してないよ。真剣でちゃんばらなんて、危なすぎるだろうが」
「じゃあ人でも斬ったのか?」
蓮兵衛の冗談は酷い。
斬ったのは人ではなく犬だ、とは言わず、菊之助は、
「持ってるだけだい」と嘘をついた。
八つになるかならぬかという子供には、ちと血生臭い話だ。
「“女”が袴着て刀を持ち歩いてるなんざあ、色気がねえや」
蓮兵衛が言った。
「うるせえやい」
菊之助がべーっと舌を出して、鼻孔を小指でほじくる蓮兵衛に背を向けた。