四竜帝の大陸【赤の大陸編】
第三十四話
「……それではっ」

 旦那の髪を洗うため、俺は後ろへと立ち位置を変え。

「いっきまーす!」

 手に持った洗髪料の瓶を逆さにし、一気に振り下ろして。
 中身を全部、世界最高齢なくせに薄毛や禿げとは永遠に無縁であろう嫌な頭頂部にぶっかけた。
 その瞬間、ベリー系の甘い香りの満ちた空間に、濃厚ながらも清潔感を感じる花の芳香が混じる。
 二つの香りは混じり合い、調和し、互いを引き立てあう……うん、なるほどね。
 これはセット販売狙いで開発したのかもなぁ~。
 瓶のデザインも、俺が赤の大陸にいた頃より洒落ている。
 くびれのあるグラマラスな形、表面に丁寧に彫られた花々や蝶……。
 容器の瓶自体が工芸品として、一級品だ。
 これは富裕層の人間に売るために作った製品だろう……やっぱ、手堅く儲けるなら富裕層狙いだな~。

「…………オカユイ所ハゴザイマセンカ~?」

 実家(?)の商売が今後もうまくいくことを願いつつ、俺は定番の文句を口にした。
 指先を立て、わざと必要以上に力をいれ、旦那の頭皮や毛根に少しでもダメージを与えられればいいのにねぇ~なんて考えつつ、がしがしと乱暴に動かし……ちょっと調子に乗って、言ってみた。
 湯船に顎まで浸かり、バスタブの縁から両足をどかっと行儀悪く出している旦那は俺の問いに。

「……かゆい? 我の頭部には蚤も虱もおらんのだから、かゆいところなどあるわけなかろう?」

 そう、答えた。
 あ~……うん、分ってますよ?
 あんたなりに真面目に答えてくれたんですよね?
 でもねぇ、なんつーか……ずれてるんだよな。
 だいたいさ、この世に旦那を噛める蚤がいたら怖いって!

「そ、そうっすか……はいはい、そうですよねぇ~。訊いた俺が馬鹿でした」

 姫さんとつがいになって、確かに以前よ旦那の口数は格段に多くなった……だから、この人が想像以上のド天然だったってことが、俺にも分かったわけで……うん、まぁ、これはこれで面白いんだけどねぇ。
 でも、これもぜひ言わせて頂きたい!

「オ湯ノ温度ハイカガデスカ~?」

 まぁ、お決まりってことで。
 一応これも、旦那に言ってみた。

「……温度? 冷水だろうが熱湯だろうが、我は気にせんぞ? ん? そういえば我は、凍傷も火傷も我は未経験なのだ。兵器で皮膚を溶かされたことはあるが」

 俺に髪を洗われ、顎まで泡風呂に浸かって喋る旦那の視線はバスタブから出ている自分の足に……爪先に向けながらそう言った。
 やっぱり、頓珍漢な返答っすねぇ~。
 ん? 
 兵器?
 それって、確か……。

「あー、シュノンセルの旦那に化学兵器使われたんでしたっけ? 黒の大陸で密造されたのをあんたに使うためにわざわざ密輸して……ったく、人妻を寝盗るからそういう目に合うんですよ! 自業自得ってやつです!」

 ドラーデビュンデベルグ帝国の女帝シュノンセルは、旦那の情人だった。
 情人……といっても、そこにあった情や愛は、シュノンセルだけのものだ。
 旦那は彼女の前で口を開くことすら無く、ただ、望まれるままに身体を与えただけの……。
 だが彼女は、この薄情を通り越して無情な男を本当に愛していた。
 だから、<監視者>の手で殺されることを選んだ。
 まぁ、実際は旦那が<監視者>として<処分>する時は“手”を使ってなんて丁寧に殺しちゃくれないけどね。

「我の自業自得? うむ、確かに“得”したのだ。長く生きてきたが、あのよう経験は、初めてだったからな」

 黄金の眼の先にある真珠色の爪を持つ足指を器用に親指から順に曲げていきながら、旦那は言った。

「……はい?」

 得の使い方、変ですっ!!
 うわぁ~、間違った方向にすげぇポジティブ思考っつーか……まぁ、いっか、面白れぇから。
 親指から順に動かしていた足の指の動きを不規則なものに変えた旦那に、今度はおふざけではなく、訊いてみたかったことを俺は口にした。

「………ねぇ、旦那。導師が俺に“向かない”って、あれってどういうことですか? 俺には狩れないくらい、導師イマームは強い術士って意味ですか?」

 俺のほうが“弱い”、だから“向かない”。
 なら、それはそれで仕方が無い。
 それで傷つくような柔なプライドなんか、生憎俺は持ち合わせていない。
 だって、俺は生きたいから。
 一分一秒でも長く、カイユといたいから。
 単騎で勝てない相手に向かっていくなんて、馬鹿やってる余裕も時間も無い。

「……強い? 導師が、お前より?」

 不規則に指を曲げる足先に視線を向けたまま、旦那は首を少し傾げた。
 その動作に、泡だらけの頭部が俺の手の中ですべる。

「俺一人じゃ導師に勝てない。だから向かないんでしょ?」

 この手の中にある頭部を全力でひねれば、旦那の首を折ることが<色持ち>の俺にはできる……一瞬なら、折ることができるだろう。
 それだけ、だ。
 そう、所詮俺はその程度・・・・だ。

「いや。違うが、違わないのだ」

 旦那の右の頬には、首を傾げた時に付いたピンクの泡。
 俺とは肌質も色も違う白い頬に付いたその泡に、旦那は右手を伸ばし。
 指先で、そっと触れた。
 まるで姫さんに触れる時のように……そっと。

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