花散里でもう一度
背中には斜めに傷があり、右肩から左の肩甲骨辺り迄パックリと開いている傷口の様子から、刃物で斬りつけられたと思われる。
「婆様、強い酒と絹糸はあるか?釣針も必要だ。」
「っく……ぐっ…」
声を堪える男の全身から汗が噴き出している。
当然だ、釣針で背中をザクザク縫われているのだから、それはもう痛いはず。
「もう少しだ、我慢してくれ。」
「…これしき、…なんでもない…。」
驚く程の強情さ…いや、我慢強さで乗り切った男は、背中を縫い終わると同時に気を失った。
井戸端で手に付いた血を洗い流し家に戻れば、婆様は心配そうに男の枕元に座っている。
私もこの男が気にならない訳ではない。けれど私が懸念する類いの者では無いだろう。
その事に安堵しつつ、立ち入った事に居候が首を突っ込む真似をするのも如何なものかと迷う私。
私の心中を見透かしたかの様に、婆様がポツポツと語り出した。
「阿久はわしらの甥じゃ。爺様の年の離れた妹が産んだ子でな、母親とはこの子が三つの頃に死に別れた。」
「阿久…。」
「父親も幼い阿久を持て余し、阿久を捨て家を出て行った。それからわしらが親代わりになり、阿久を育てた。わしらには子が居らんかったでな、そりゃあ可愛がった。」
うつ伏せに寝かせられた阿久の顔にかかる髪を掻き上げ、その顔を覗き込む婆様は母親の顔そのもの。
皺だらけの手は何度も阿久の頭を撫でる。愛おしいと、静かに物語る優しい手。
「じゃがな、やっぱり実の親には敵わんよ。三年程前に親父を追いかけ京に行くと言い、家を出て行ってしまったんじゃが…何をしておったのか、こんな事になって…。」
「ろくでもない輩と連んでおったんじゃろ、どうしようもない奴じゃ。」
吐き捨てるような爺様の言葉からは、大事に思うからこそ余計に苛立ちを感じている事が知れる。
爺様の剣幕に、抱かれていた伊吹が目を覚まし泣き始めた。
「腹が空いたか、母ちゃんに乳をもらえ。」
伊吹を渡され、その小さな口に乳房を寄せれば、夢中になって吸い付く赤子の姿に心が解きほぐされる。
「なんにせよ、阿久が目を覚ましたら聞いてみる他あるまい。今日はもう寝るべぇ。」
狭い山小屋の事、十分に夜具が有るわけもなく、婆様と爺様は土間の隅に山になった藁に寝そべり、私と伊吹は阿久の横に敷いた布団に横になった。