花散里でもう一度

それを伝えるには、お互いの距離は近過ぎて、結局言わず仕舞いになってしまった。

今ならきっと言えるのに、気持ちを伝えたい相手の姿が無い。

それが、とても寂しい。

恥ずかしがって、茨木の腕から逃げ出していた私に言ってやりたい。



「素直が一番だぞ。」





完全に陽が落ちる前に、小屋に帰らないとよろしく無い。
暗闇はさほど恐ろしくは無いが、夜目が効かず転んだりして、伊吹に怪我をさせてはいけない。そう思って足早に道を下る。

と、道の向かいから歩いて来る人影が見えた。

まさか…こんな時分に、しかも峠までの道の途中で人と行き会うなど、考えにくい。物の怪の類かと身を固くする。そんなもの信じた試しはないが…むしろ生きた人間の方が遥かに恐ろしい事を、嫌という程味わって来た。

逡巡する私と、人影との距離は、どんどん縮まる一方。

どきどきと心臓の音が煩い、全身の毛が逆立つ様な感覚に襲われる程警戒している私は、とっさに今来た道を走り出した。

取り敢えず林に逃げ込み、あの辺な奴をやり過ごしてから帰ろうとしたが…予想外に追いかけて来る。
伊吹を背負って全力で走る、伊吹は揺れるのが楽しいのか、けたけたと笑っている。
呑気な性格の我が子に脱力しそうだ。

もう引き離したかと振り返れば、向こうも負けじと追いかけて来ている。

なんでよ！
なんで追っかけてくるんだ！

焦った私は、小石に蹴躓いた。
一瞬、身体が宙に浮く。その次に身体を襲う衝撃に身構えた。
…が、それは来ない。

「大丈夫か？」

つぶった目を恐る恐る開けば、強面が少し眉を寄せ覗き込んでいる。
私は、阿久の腕に抱き留められていた。

「なっ、なんで…」

「家に帰ったら、飯の仕度は出来てたのにあんたの姿が無かったから…。」

「それでわざわざ探しに来てくれた、って訳か。申し訳ない、書き置きでもすれば良かったな。」

笑って誤魔化そうとする私に、不機嫌そうに阿久がつぶやく。

「俺は読み書きが出来ない。…ちゃんと言ってくれないとわからない。」

「あ…、すまない。…うん、今度からは、ちゃんと言うよ…。」

そうだ、普通の村人なら、文盲が通常だ。
自分は…幼い頃から、無理矢理に寺に通わされ、手習いをしていた。母は、いつか私を父の元へやるつもりで居たのだろう…。