花散里でもう一度
峠の小屋に戻れば、その小屋の主は不在。
婆様が沢山の野菜を土産に持たせてくれたが、重いだろうと爺様が運んでくれた。
土間に荷を下ろした爺様と、水を飲み一息入れた。
「…伽耶、さっきの話だがな…あれは婆様が勝手に思い込んでいるんじゃ。はっきり言わぬ阿久も悪いが、婆様もそうだったら良いと思っていたからな。」
爺様が言いにくそうにしているのは、阿久の嫁さんと紹介された事を言っているのは分かったし、婆様がそれを望んでいる事も薄々気付いていた。
まだこの家に置いてもらいたい。
でも、こちらの都合を鑑みれば、曖昧な立ち位置のままの方がいい。
そう考える自分が、酷く残酷な人間に思える。
「まぁ、もしもこのまま阿久と暮らすのなら……いや、何でも無い。伽耶の好きなだけここに居ればいい。」
山路を下る爺様の後姿を見送りながら、小さく溜息をつく。
ー阿久と夫婦にならないか?ー
爺様の言いたかった言葉は、容易に想像出来る。
でも、私には夫が、茨木が居る。
彼等の望む言葉を、言ってやるわけにはいかない。
そもそも、阿久だって自分の事を何て思っているかも分からない。
ただ、この生活が歪だとは分かっている。
赤の他人の男女が、一つ屋根の下暮らす…何もあるわけが無いとは言えない。
逆に、何も無い訳が無いと言われるのが、当然だろう。
男の性を知らぬ、小娘では無いのだ。
今の関係がとてつも無く危うい均衡の上に成り立っているのは分かっている。
さながら薄氷の上を進むが如く…
なのに、そこから抜け出す勇気の無い自分が嫌になる。
いつもの様に、勇気と無謀を履き違えるべきでは無いと、言い訳をする私。
本当は、怖いんだ。
茨木は、迎えに来ないかも知れない…別の女鬼と、新しい生活を送って居るのかも知れない…、私も伊吹も過去になって、忘れ去られているかも知れない…。
それを、確かめるのが怖い。
それなら、何も分からないで、ただ待つだけの日々、苦しい胸の内を誤魔化す毎日を送る方がいい。
いつから私はこんなに臆病になったのだろう。
峠の向こうに、夕日が沈む。
茜色に染まる西の空を見上げ、愛しい鬼の名を呟いた。
「茨木…。」