花散里でもう一度
懇願
懐かしい記憶は、時に夢に現れ甘く優しく俺を苛む。

愛してる
愛してる
狂おしい、この想い。

彼女を壊してしまいそうになって気付いた。いや、分かってはいた。けれど認めたくなかっただけだ…

愛しているなら、彼女を解放すべきだと。

人の世に返してやるべきだと…分かり切ってたことじゃないか、始まりさえも一方的な自分の想いを通しただけだったのだから。

彼女は人間で、俺は鬼。
本来決して交わる事のなかった道のはずなのだから。




目を閉じれば瞼に浮かぶのは、あどけなささえ残るその笑顔。
自分に受け止めさせて欲しいのだと、切なげな顔で見上げた彼女は無意識だろうが、此方は煽られて…もう止まってはやれない。

その華奢な体は俺の下で桜色に色付いて、漏れ出る艶目いた声を堪えようと小さな手を口元に当てている。
そんな事しなくていいのに、そう言えば小さな頭を横に振って応えるも、更に熱を帯びる身体が耐えきれず小さく声を上げた。
目尻に光る雫が頬をこぼれ落ちて行く。それさえ惜しくて彼女の涙を舐めれば、しょっぱいはずのそれは、変に甘く感じる。
こみ上げる想いのままに、彼女の小さく華奢な体を抱きしめる、そして小さな手が応えるように自分の背中に添えられた…全てが満たされていた時だった。







ふと目が覚めれば、暗がりの中ぼんやり浮かぶ月が目に映る。
静かに降りしきる雪が山じゅうの音を吸い込んでいるようで、静けさに耳が痛むくらいだ。

「さぶ…」

木切れを集めて作った、不格好な木戸とも言い難い物は隙間が大きく、月影はおろか粉雪までもが振り込んで来る。
枯葉を下に厚く敷き、その上に敷き詰めた毛皮、そして体にも毛皮を巻きつけた姿はまるで熊の越冬姿だと思う。

山中に見つけた岩屋を利用して、何とか冬を越せれる位に身の回りを整えたが快適とは程遠い。
左手があればもう少しマシだったかも知れないものを、と思わなくはないがこれもまた致し方なし。

つるりと丸くなった左腕の先を撫でる。失った筈の左手が痛む様な疼く様な…不思議な感覚だ。もう無いものなのに、今だ体の一部として存在を感じる。
彼女の存在もまた、夜毎何度でも酷く現実的に蘇る。そして、朝目覚める度にその不在を更に実感する羽目になるのは…正直堪らない。

燻っている焚火に木切れを放り込めば、パッと火の粉が舞い上がった。
赤々とした炎がかつて自分の育った里を思い起こさせる。
鬼たちの宝、金山と製鉄の技。
自分もその技を磨くため、厳しい修行をしたものだ。だがそれもまた時間の流れの中に埋れて行くのだろう。
鬼の宝を巡る闘いに鬼は敗れ、もはやその技を受け継ぐ者もなく、そのための技を伝える者も絶えてしまったのだから。


ふと先程まで弛たっていた懐かしい夢を思い返す。
時間の中に埋れつつある、かつての甘やかな記憶。
ほんの僅かな二人で過ごした時間。
でも甘い夢の残り香に、胸を刺す痛みが混じるのは気のせいじゃない。


綾…


俺たちが別れた峠に立ち、その向こうをジッと見つめていた彼女を見付けた時…言いようのない焦燥に駆られた。

俺は、同胞の命とお前を天秤に掛け、そしてお前を選んだ…
その罪深さは分かっている。

だから、お前が選んだ道ならせめて、潔く受け入れようと思った。
でも、その決意は簡単に揺らいで行く。

峠の向こうを見つめる綾、彼女の腹は大きくせり出し、もう一つの命を宿す体と知れる。
あの時の腹の子は、無事生まれていればもう三つにはなる筈。


…分かっていた事じゃないか。

綾は人間だ、彼女の並の幸せを願うなら、今のままそっとしておいてやれ。

そう頭では分かっているのに心が軋む、痛みに悲鳴を上げている。

人間の男に抱かれた綾を責めるつもりはない。
いや、よくあの冬を越して生きていてくれたと安堵した。

けれどやはりというか、漣のように波立つ波紋が胸の内に広がる。

「綾……」

獣くさい毛皮に鼻先を埋めると、再び目を閉じた。



◇◇◇◇



「おい!鬼、いるんだろ!」

「返事しろ!」

「おい‼︎」


風の音ではない、俺の空耳でもない。
驚く事に人間の声が聞こえた。
最早雪に閉ざされた山の中で、自分以外の立てる物音すら稀と言うに。俺を呼ばう声には聞き覚えがあった。

阿久、と言ったか。
そう呼ぶ綾の声が脳裏に蘇る。

唸るような風の声に耳を傾け、それに混じる男の声が遠ざかるのをジッと待つ。

けれどしつこい程に俺を呼ぶ声は動かない。
人間の足ではぐずぐずしていれば里に降りるまでに日が落ちるだろうに、業を煮やした俺は仕方無しに腰を上げた。




「煩いのは好かん、そう言ったろうが。」

岩屋からのっそりと現れた俺を見て一瞬体を揺らす男は、それでも視線をそらす事は無い。

「あんたが茨木だな?そうだろう。」

雪を全身に纏わせているが武器になりそうなものは持っていないらしい。
昨夜から降ったり止んだりを繰り返す雪は、男の膝下まで積もっている。その柔らかい雪の中にいきなり突っ伏すように頭を下げる男は、叫ぶように懇願した。

「頼む、伽耶を助けてくれ。あいつずっとお前の名前を呼び続けてる…他の人間が何言っても耳にも入らん。ろくすっぽ飯も喉を通らないし、このままじゃ腹の子までもどうなるか知れない!」

もう自分と綾は関わってはいけない、そう言い聞かせているというにまた面倒な事を、そんな考えが透けて見えたのだろう。
焦った男が言い募る。

「…あんたに助けてくれなんて、俺が頼めた義理じゃ無いのはわかってる。
伽耶を、いや…あんたの妻を、無理矢理手折ったのは俺だ。
あいつは、お前の子を守りたい一心で仕方無しに俺と関係を持った…。あいつの心にはどこまでもお前とお前の子しか居なかった。それだけはあいつを信じてやってくれ。」

随分と強面な男だが、この取り乱し方を見れば自分よりもずっと年若い事に気付いた。
小さく溜息を吐くと岩屋の奥に引っ込んだ。

薪を足して炎を大きくする。
風が通るから火を絶やすと寒くてならない。
寝床代わりにしている毛皮のうち一枚を自分で羽織り、敷き詰めた毛皮に胡座をかいて座った。

鬼の住処に足を踏み入れ様という度胸はあったらしい。
遅れて男も後を追って岩屋の中に入ってきた。獣臭い毛皮を投げて寄越せば素直にそれを羽織る。
ひょっとしたら綾よりも更に年若いのかもしれない。焚火の前に座り込んだ男の横顔は酷く幼く見えた。

「何から話せばいいか…。
俺は阿久。
騰蛇、平たく言えば悪党集団だ、その暗殺部隊の先鋒だった。俺をそんな外道に育て上げたのは実の親父だ。
俺の親父がその騰蛇の元々の首領だった。」

黙っている俺をちらりと横目で見るも、視線は布を巻いた自分の手に落ちる。
どうも平素はあまり喋るのは得意で無いのだろう。
考え考え言葉を紡ぐ男の言葉の中に嘘は匂わない。

「もう十年近く昔の話だ、まだ稚児姿の俺が都の名のある貴族の堀川中納言の屋敷に入り込んだ事があった。
そこの姫様は変わってて…雑色なんかとも普通に喋るわ屋敷から抜け出すわ、市原女に化けるわ…分かるだろ、あんたの嫁だ。
馬鹿みたいだけど、俺はその姫様から声をかけられるのがひどく気にかかった。名前のつけられ無い感情が自分を支配する様が厭わしい、然りとて一月声もかから無いと憤懣遣る方無い、兎に角自分もさる事ながら、主家の姫君が鬱陶しくてたまらなかった。
今なら分かる、単に嬉しかっただけだがな。
今ならそう分かるが、その時は自分の調子を狂わせる姫様が苦手で、その癖そばをちょろちょろして……自分が何でそんなになるのかさっぱりわからなかった。
で、仕事に取り掛かる前にヘマをやらかして屋敷から逃げ出すしかなくなった。」

焚火に枯れ枝を放り込む。
パチパチと木の爆ぜる音だけが響く。

「すまない、こんな事あんたには関係無い話だ。」

「構わん、暇つぶしだ。」

小さく息をはいた男は、また視線を指先に戻しながら話を続ける。

「それから数年後、おれが任されていた仕事は都のある大貴族の一族を消す事。
万里小路の大殿が住まう屋敷に入り込み、一家を手にかけると。
俺はそれをやってのけた。
そうする事で俺は、親の愛情を得たいと足掻いていたんだろう。
あいつにそんな物存在しない、俺は血の見返りに愛情を得る事が出来るなんて思っていたんだろうか。分からない。本当に俺が馬鹿だって事は良く身に沁みてる。

ああ、けど、万里小路の一姫は、殺さなかった。
少し、堀川の姫様に似ていた様な気がしたから。屋敷に火を放った後、こっそり逃したんだ。
善行をしたなんて思っちゃいない。
ただ、俺がそうしたかっただけだ。
鬼畜に僅かに芽生えた慈悲の心だなんていい物じゃねえ、ただの気まぐれさ。

さらに数年したある時、堀川中納言の姫様が大江山の鬼に拐われ死んだと都中で話題に上がった。
信じられなかったよ。
あの明るい、太陽みたいな人がもうこの世に居ないだなんて。
その時漸く当時の自分の気持ちを客観的に眺める事が出来た。
本当に虚しい話さ。
その頃には立派な人殺しで飯を喰うひとでなしが出来上がっていたが、ひとでなしが初めて人間らしい感情を手に入れた瞬間、その想いを捧げるべき人はもう居ない。
つくづく俺は自分という存在が嫌になった。

その後の伽耶の事は、あんたの方が良く知っているだろう。」

一息に喋り終えた阿久は、入り口の脇に置いてあった水瓶から柄杓で水を掬い一気に飲み干した。

「だがなんで都から離れたこんなところにお前が……」

やれやれと言った風に頭をふる阿久に浮かぶのは苦笑いで、つるりと顔を撫でると吐き捨てた。

「俺がドジを踏んだ。
もう随分経っていたが、万里小路の一姫を逃した事を手下に感づかれてたらしい。
親父にタレコミやがって裏切り者として消されかけた。間抜けた話だ。
まあ、返り討ちにしてにげだした、一切合切をぶった切って、それで……」

「それで?」

「やり直したかったんだ。
ここはおれの生まれた村なんだ。ここで育った、悪さもしたがまだちゃんと人間だった頃のおれがいた場所だ。
そこになんでだろうな、あの女がいた。
嘘みたいに、変わらず、綺麗で、いやもっと綺麗になってた。子供を産んだ母親としての姿は、あの頃と変わらないぐらい、それよりも、もっともっと生き生きとしていた。」

知らず息を詰めて阿久の語る綾の姿に聞き入っていた俺は、はっとさせられる。

「だから自分の物にした。
手を伸ばさずには、いられなかった。」

初めて真正面から阿久の目を俺は見た、等しく俺を見つめ返す男の目は例えようもなく静かで。

「あんたの前で、俺がこんな事を言うのは殺してくれって言ってる様な物だろ。
いいんだ、そうしてくれて構わない。
だから、伽耶の元に帰ってやってくれ。
俺は、もう十分夢見させてもらった。

あいつが苦しんでるの、知ってたのにな。

俺はいつも間違える。

あんたがしたみたいに、あいつの事を一番に考えてやれない。

あの満座の中で蛇に聞かれた伽耶が答えられなかった時、あんた伽耶を「知らん」て言ってたろ。あの時の伽耶の顔、見る間に色をなくしていく彼女の横顔をただ見る事しか出来なかった。
でもそうする事であんたは伽耶を守ろうとしたんじゃないか。

鬼と通じた女と、伽耶が受けるだろう誹りや非難から守ろうとした。
恐れから来る人間の残忍んな所業は悪党の想像すら凌駕する。罪なき人々ほど怖いもんはないからな。」

「人だけじゃないがな。」

「あ?」

「鬼だってかわりゃしねえ。」

「そうか。そうかもな。」

皮肉めいた笑みを一瞬浮かべた阿久が、真顔に戻って俺に言った。

「とにかく、あんたの気遣いを無駄にするつもりはない。
こんだけ雪が降る中なら周りの目も少ないはずだ。今から山を降りてくれれば夜には何とか間に合う筈。
頼む、伽耶の命を引き止めてくれ。
あいつが待ってるのはあんただけだ。」




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