花散里でもう一度
花散里
待って、行かないで
私、ずっとあなたを待ってたの
ずっと、信じてた
私たちを迎えに来てくれるんだって
約束は果たされると、そう言い聞かせてた
それなのに
小さくなっていくあなたの後ろ姿
振り返ることの無い、あなたの後ろ姿に
手を伸ばす
でも、届か無い
虚しく空を漂う私の手
お願い、帰ってきて
声を限りに叫んでも、あなたは振り返らない
◇◇◇◇◇
「綾」
「綾、起きろ」
ああ、聞き覚えのある懐かしい声。
これって夢、なのかな。
薄っすら目を開ければ、暗い部屋を小さな灯りが照らしている。
踊る炎に合わせ揺らめく影が見えた。
角度のせいか、いつもよりも阿久の背中が大きく感じる。
「お前何にも食べないって、ちゃんと食わなきゃ腹の子がひもじがるぞ。」
そう言って足元の方でゴソゴソしていた阿久が振り返った。
いや、阿久だと思っていたその影は、まだ夢の続きを見ているようで。
「ほら、食え。」
粥を掬って差し出すのは、夢にまで見たその人だった。
「……なに、おさんどんなんてしないんじゃなかったの。」
ああ、きっと夢だから。
楽しい夢の続きだから、だから、なんでもない日常の一瞬を切り取ったように、なんでもない顔して、当たり前みたいにあなたがいるのね。
冗談みたいに綺麗なその顔を顰めて口を尖らす所も、変わらない。
私の記憶の中の茨木そのもの。
「石熊が勝手にそう言ってるだけだ。」
「ふふ、そうなんだ。」
懐かしい人を思い出す。
石熊は茨木の異母兄で、人間達と闘い死んだ。
今はもういない人達の笑い顔が頭をよぎる。
「なんで、ないてるんだよ……」
こぼれ落ちる涙を、茨木がそっと拭う。
その優しい仕草にことさら涙が溢れてくる。
「なんでかな、勝手に出てくるんだよ。」
目元を乱暴に擦るその手をやんわりと止められ、そっと頭を撫でる手が優しすぎて、溢れる涙は止まらない。
ああ、綺麗だな。
緑がかった灰色の瞳に、長い睫毛が影を落とす。
少し痩せたのだろうか、頬がかすかにこけて見える。
力が入らず震える手を叱咤して、茨木の頬に手を伸ばす。
黒子一つ染み一つない美しく作り物めいた顔は、その印象に反し柔らかく暖かい。
「腹の子に障るからな、そんなに泣くな。ちゃんと飯を食え。それから、ゆっくり眠れ。」
茨木の右手がそっと私の頬を撫でた。
壊れてしまうかのように、いっそ慎重とも言える手つきで。
私はその手を握りしめ頬に押し当てる。
柔らかい笑みを浮かべた茨木がその手を握り返す。
「……うん。」
ああ、なんて幸せで満たされた、残酷な夢だろう。
消えない悲しみもあなたと一緒にいられるなら耐えられる。
きっとまた笑える。
お願い、どうぞ夢よ醒めないで。
………でも夢ならいつかは終わってしまう。
だから、これだけは伝えたい。
たとえ夢でも、あなたに会えたのなら、私の気持ちを伝えたい。
言葉を介するもどかしさ、だからこそ惜しまず言の葉に載せよう、私の心があなたに伝わりますように。
「茨木に会えて良かった。本当に嬉しいの。いろんなことがあったけど、全部、全部あなたとの出会いがくれた物だから。……だから、ありがとう。」
「綾、なに言って……」
戸惑いが浮かぶ夫の目には私が写り込んでいる。
ちゃんと笑って言えた。
「ごめん、変な事言ってる。でも、本当にありがとう。」
「……いいから、これ食べろよ。こんなに細っこくなって、益々チビになるぞ。」
これ以上身長は変わらない筈だ、そう口答えする前に私の口に匙を突っ込む茨木は、何だか泣き出しそうな顔をしていた。
ずいぶん胃袋が縮んでいたらしい、ふた匙程食べるのがやっとの私に白湯を飲ませた茨木が、眠るように言う。
「手を、繋いでね茨木。」
「ああ。」
幼子の様に繋がれたその手に額を擦り付け抱きしめた。
「嬉しい。今度は伊吹と一緒に会いたいよ。あの子を抱いてあげて……」
「そうだな。さぁ、もう眠れ。」
大きな手が私の目元を覆い目を閉じた。
優しく頭を撫でる手を感じつつ意識が溶けていく。
痛い位幸せな夢だった。
◇◇◇◇◇
木戸の隙間から朝日が差し込む。
もう日は高く昇っている。
頭がぼんやりして重たい。
泣きはらした目は腫れて目も当てられ無いひどい顔になっていることだろう。
あまりに幸せな夢の名残にまた涙が溢れそうになる。
「伽耶、目が覚めたか。どうじゃ、粥は食べられそうか?」
木戸から顔を覗かせたのは粥の膳を持った婆様と伊吹だった。
「母ちゃん、大丈夫?お目々が真っ赤だよ。痛い?冷たい手拭い持ってくる?」
心配気に近寄り覗き込んでくる伊吹が可愛くてならない。
同時に心配させていたのだと反省する。こんなに小さな体でも、精一杯私の為になる事をしようと頭を働かせているのだ。
「もう、大丈夫だよ。ごめんな伊吹、心配掛けた。」
「うん。良かった。」
ニコニコとまっすぐな笑顔を向ける伊吹を抱きしめた。
夢の中で茨木に会えた。
伊吹は、茨木との繋がりを感じる事のできる唯一の縁だ。例え会う事は無くとも立派に育て上げなくては、そう気持ちを立て直させてくれた。
それに、まだ私自身の痛みに向き合うのは早いのだろう、やらなくてはならない事は他に有る。今少し痛みから目を逸らし、前に進まなくてはならない。
それでいいんだよな茨木。
それから一月程経ち、私は子を産んだ。
女の赤子は丸々と太って、健康そのものの健やかな子だった。
「可愛いね、母ちゃん。妹だね。女の子だからね。」
伊吹は小さな赤子に興味深々でずっと張り付いて離れない。もっともそれは誰しもが同じで、婆様や爺様、あろう事か阿久迄もが赤子に貼りつている。
もっとも赤子の父親なのだから、気にかかるのは当然かもしれないが、それにしても私にしてみれば意外な反応だ。
夜中に小さな泣き声が狭い部屋に響けば、赤子が乳を欲しがっているのだ。何度となく目を覚まし乳を与える、お陰でいつも寝不足で頭がぼーっとしている。
夜中たった一人で起きて赤子を抱いて授乳していると、不意に涙が溢れてきた。
なんで泣いているのか、自分でも分からない。
「伽耶、どうしたね。そんなに泣いて……」
声を抑えたつもりだったが婆様に聞こえていたらしい。年寄りは眠りが浅いからな、仕方がないか。
「婆様、気にしないでくれ。……ただ体が涙を流すだけだから……」
そう答えた私は、不意に抱きすくめられた。
年寄りとは思えないほどの力強さで、鼻先は婆様の草臥れた寝巻きに押し付けられ、婆様の匂いでいっぱいになる。
「かわいそうに、かわいそうにの……こんな皺くちゃの婆でも女じゃからな、好いた男の隣にいたいと願うお前の気持ち、わかるつもりじゃ。」
「婆様?急にどうしたの」
忙しなく手を揉む婆様だったが、意を決した様にまっすぐ私を見つめた。
「お前の夫がここに来たのじゃ。阿久が殺されかけたあの後、お前が腑抜けた様になって飯も食えない、そんな時阿久があの鬼を連れてきた。覚えてはおらんか?」
耳元で波の音が聞こえた気がした。
眩暈を抑え、傾ぐ体を支えようと布団に手を付く。
「な、に、それって……」
「お前は夢だと思っておった様じゃが、本当にお前の夫がここに来ておったんじゃ。
人にあらざる美貌の鬼じゃな。しかし、私等に見せた非情な顔と力は恐ろしい。それなのにお前を見る目は何処までも優しくて、お前たちの間にある感情と絆を垣間見たよ。阿久の出る幕はない、それはよく分かった。すまなかったな伽耶。いや……本当の名は綾か。」
上手く息が吸えない。
喘ぐ様に息をする、胸元を握りしめ、暴れ出した心の臓を宥めようとする。
「そ、の名前…」
「お前の夫がそう呼んでいた。」
自分の名を明かした事は無い。
阿久でさえ私の本当の名前は知らないはず。婆様がその名を知っているという事は、本当に茨木が此処に来ていたという事に他ならない。
焦って立ち上がった私の寝間着の裾を婆様が掴んだ。
「落ち着け、まだ直ぐには居なくならんよ。この気候じゃ直ぐには動けまい、動くにしてももっと暖かくなってからじゃろ。」
「でも!行ってしまう!茨木と逢えなくなる!」
「大丈夫じゃ、お前や伊吹を置いて居なくなりはしないさ。あんなに切なげにお前を見ておったんじゃ、気持ちが無くなった訳じゃ無い。」
布団に座り込んだ私の背中を、婆様が頻りと撫でる。
「大丈夫、きっとまた一緒に暮らせる様になる。この子の事は心配するな、私等がちゃんと育てる。だから、お前は夫の元に帰るがいい。……頑なまでに口を開いてはくれなかった訳が分かったよ。確かにおいそれと口には出来ぬ話じゃの。ほれ、横になれ。少しでも体を休めてやらなくてはな。」
何度も頭を撫でる婆様の手は優しかった。
三寒四温の季節、ゆるゆると春が近づいてきているのが分かる。
まだ冷たい風に遊ぶ髪を押さえ、庭先で遊ぶ伊吹に声をかけた。駆け寄る伊吹の手には野芥子の花が数本握られている。私と妹に摘んだのだとニコニコと笑う伊吹はとても優しい子に育ってくれた。
「伊吹、母ちゃんと一緒にお山に登らないか?」
「もうお山のお家に帰るの?」
「そうではなくて、お前の父ちゃんに会いに行こう。」
目を丸くした伊吹がおずおずと聞いてくる。
初めて聞いた自分の父親について驚いているのだろう。
「父ちゃんに?会えるの?」
「……たぶんな。会いたいか?」
複雑な顔をする伊吹、幼いなりに思うところがある様だ。何かしらの葛藤が見て取れる。
「うん。」
伊吹の答えを聞いて安心した。
阿久はあれから何度か茨木に会っている。
身の回りの細々した物を差し入れたりしながら、茨木を引き留めていてくれた。
私とはもう会うべきでは無いと言う茨木を、説得してくれたのは阿久だ。
纏めた荷物を持って外に向かう私に、低音の声が掛かる。振り返れば阿久が赤子を抱いて立っていた。
「伽耶、行くのか……」
「……阿久、ありがとう。茨木を引き留めてくれて。」
「早く、行けよ。」
「世話になった。」
「早く行っちまえ。」
眠る赤子を抱きしめ俯く阿久は、なんだか幼さを感じる。
娘の小さな頭を撫でれば、むずかる様に小さな体を動かし、その小さな手で顔を擦る。
「ごめんね。」
私が生んだ娘は、阿久と爺様婆様が育てると言う。
自分の生んだ娘を捨てるようで苦しくてなら無い。
でも、それでも娘は置いて行ってくれ、鬼の子と言われるのでは不憫だから、山の生活に赤子の体は耐えられまい、そう言われては無理には連れて行く事は出来ない。
母を求めて泣く子が哀れだ。
そうさせるのは私。