花散里でもう一度

「うん、…私は何も出来なかったよ。情けない、薬師になって皆の病を治したいなど私には過ぎた願いだったのだろうな。」

情けない。
鬼の里では薬師の老婆に着いて修行をしたものの、付け焼き刃の私では出来る事などたかが知れている。

茨木は何も言わず、私の身体を抱き寄せた。
頭を幼子にする様に何度も撫でる。
足元に届く程あった長い髪は、背の中ほどで切られ、形見として両親の元へ遺して来た。
私なりの覚悟を表したつもりだったのに、茨木の優しさに縋るだけの情けない自分に嫌気がさす。
私はいつの間にこんなに弱くなったのだろう。

「今だけ、このままで居させてくれ。」

茨木に寄りかかり、目を閉じた。
身体に茨木の体温を、耳元に鼓動を感じるのがたまらなく愛おしい。
短くなった髪がさらさらと肩で揺れた。



陽射しが柔らかくなり、雪が少しずつ減って来た。
新芽が芽吹く時期まであと僅か。
それは、皆が北を目指す旅の始まりを指す。

今は雪に閉ざされた山だが、春の訪れと共に山に入る人間が増える。人間に遭遇する率が上がるとなれば、それに伴う危険も増えるのだ。

春も浅い早春の頃、空気は確かに春の訪れを感じるも、雪解け迄はまだまだ時を要する。
出立が決まった。

北に向かう一行は、冬を追いかける旅となる。
粉雪の舞う曇天の日、僅かばかりの荷を持ち旅立って行く皆の姿を、祈りを込め見送る。

どうか、彼らに安住の地を御与え下さい。

神仏など信じた試しが無い私だが、祈らなくてはいられなかった。
誰に祈りを捧げるのかは分からない。でも、人や鬼よりも高みに有る大きな存在を信じたい、いや縋りたい思いだった。

「綾、行こう。」

差し出された茨木の手。
それを握り締め、でも動けない私。

一緒に行きたい。
一緒に生きたい。
生まれてくる我が子を抱いて欲しい。
私を抱き寄せて、頬を寄せ口づけして、じゃれ合う様にしながら眠りに落ちる、そんな毎日に戻りたい。
この一歩を踏み出せば、その願いは叶うの。

……ダメ。

それは無理だ。
今でさえ緩慢な動きでしか動け無い私が、皆に着いて行ったら迷惑どこじゃ無い。

「先に少人数で出立し、野宿出来そうな所を確保してから、本体は移動する。年寄りも居るんだ、ゆっくり進むから心配するな。大丈夫だから。」

グラグラと揺れる私の心は、さながら波にたゆとう小舟の如く。


ふと懐かしい海の景色と共に、脳裏に蘇る母の姿。ピンと伸びた背筋で海原に手を合わせていた横顔は静かだった。





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