花散里でもう一度
伊吹
体が疼く程の甘い口付けを落とし、痛い程に抱きしめられたのが昨日の事の様。
「必ず迎えに来る。」
その言葉を支えにどれだけの時間が過ぎたのだろう。
◇◇◇◇
茨木と別れたあの日、皆の後ろ姿を見送ると山を下りた。
その途中に見つけた炭焼き小屋、近くに人が住んでいるらしい。
粉雪が降りしきる中、細い頼りない道を半刻も歩いた頃、小さな小屋を見つけるとその戸をたたいて転がり込んだ。
山の炭焼き小屋で炭を焼いて暮らす老夫婦が、目を丸くして私を迎え入れてくれた。
私が子を宿した体と知ると驚き、半ば叱り飛ばす勢いで薄い夜具に私を押し込み、始めて会った私に怒った様に言い聞かせる。
「あんた一人の身体じゃない、もっと体は大事にせぇ。」
本当にその通りだ。
今まで良く無事に来れたものだと、自分でさえ驚いている。
老夫婦は、なにくれと私の面倒を見てくれたが、何も聞きはしなかった。
身重の体で雪の中を歩き、こんな山奥の小屋に転がり込むのだ、何も無い訳が無い。
けれど、私が話すまでは無理に聞こうとはしない。
その優しさが、嬉しかった。
「伽耶、繦をたんと縫っておくんだよ。日に何枚も使うんだからねぇ、あぁ、休みながらにしなさいね。無理は禁物だよ。」
何も言わない私を、何も言わず受け入れてくれた老夫婦には頭が下がる。
まるで自分の娘の様に、大切にしてくれる人達に、名前を偽るのは申し訳無い気がしたが仕方が無い。
伽耶…かや、それが今の私の名前。
無口な爺様と、ぺちゃくちゃ口が良く回る婆様は、互いに憎まれ口を叩くものの、本当はとても仲良しだと気付いてしまった。それがとても羨ましい。
朝早くに起きて、婆様の手弁当を持って山に行く爺様。
水汲み、掃除、洗濯、炊事、くるくると忙しく働く婆様は元気者。
平凡な毎日に、埋れていく私。
腹が膨らむに連れ、爺様はそわそわと落ち着き無くなり、婆様は更に口煩くなって行ったのが可笑しかった。
臨月にもなれば、赤子に着せる着物や繦が山のようで、二人が今か今かと待ち構えているのが面映ゆい。
縁もゆかりも無い赤の他人である私に、過分な厚情を掛けてもらい、ふと涙が零れる事もあった。