渡り廊下を渡ったら
先生は、至極真面目な表情で、私の顔を覗き込む。
その手が私の腰を撫でているのが気になって仕方ないけれど、反応してはいけない気がした。
「僕が好きなのは、ミイナだけ。
ずっと、ずっと見てたんだよ」
とろん、とした甘い表情になって、先生が顔を近づけてきた。
それだけは絶対に嫌だ!
心の中で叫んだのと同時に、べちん!と小気味良い音がして、彼は額を押さえたまま唖然とした表情で、息を荒げたまま固まっていた私を見ていた。
「あ・・・」
はっと我に返って、慌てて手を引っ込める。
唇を死守するのに必死で考える暇もなかったけれど、状況から察するに、どうやら先生の額を思いっきり引っぱたいたようだった。
それでも、謝る必要がないのは、さすがの私でも分かる。
すると、ひりひりしているのか、額をさすりつつ、先生が急に真面目な顔で言った。
「本当に、君が好きなんだよ」
その瞳に鋭さはなく、どこか甘える子犬のような媚が見て取れる。
色気で溢れた視線が、悲しげに揺れた。
「王立病院に勤務していた時に、たまたま孤児院に立ち寄ったことがあってね。
その時に君を見かけたんだ」
心なしか、いつもより彼の声のトーンが低い。
意識が切り替えられて、彼がだんだんと男性として見えてくる。
「どうしても傍で見ていたくて、医務室の医師を交代させたんだけど・・・。
院長が、邪な気持ちがあるのなら勤務させるわけにはいかない、って言うから」
そこまで言って、先生が遠い目をする。
「仕方なく男色めいた言動をしていたってわけ。
でもそのおかげで、ミイナにも警戒されずに触れることが出来たんだけどね・・・」
発言が犯罪者のような彼に、やはり同情するべきではない、と私は悟った。
「じゃあ、先生は女性が好き・・・なんですか・・・?」
尋ねると、先生は嬉しそうに頷いて口を開く。
「てゆうか、ミイナが好きなの。
やっと恋愛の対象として認識してもらえる日が来たんだね~。
もう孤児院を出た身だから、何しても院長のお咎めもないことだし」
「・・・あの、犯罪のにおいがしますけど、何か変なこと考えてないですよね・・・?!」
腰にまとわりついた手をてしてし払って、先生を睨みつける。
ここで甘いことを言ったら、こういう思い込みの激しそうなタイプは、極端な行動に出るような気がする。
私は口元を引き締めた。
「犯罪って・・・失礼だね。
もう自分を偽る必要がなくなったから、今だって本格的に求愛、」
「どんな行為でも双方の合意がない場合は、犯罪です」
・・・さっきのは求愛だったのか。
突然愛をぶつけられても困る。
私は大きなため息をついた。
「犯罪まがいに迫られても、私が先生を好きになることはありません!」
いい加減離れて下さい、と付け加えて先生の体を押しやる。
今度は私の力でも、ちゃんと自分のシートに戻ってくれた。
とても残念そうだったけれど、もう子犬の目をしても駄目なものは駄目なのだ。
「君は確か、渡り人だったね」
列車がもうすぐ王都に着く、という頃になって、先生は急に真面目な顔をして私に言った。
その確認が一体何を意味しているのか分からずに、首を傾げる。
「きっと王宮について、何も知らないと思うから忠告のつもりで話すよ」
言われるまま、私は首を縦に振った。
きちんとした話なら、真面目に聞いておきたいからだ。
「今では渡り人も、世の中に受け入れられて普通に生活してるけどね、
それまでは戸籍も作れず、誰かの庇護を受けないと生きていけなかったんだよ」
「え・・・?」
「庇護を受けるってことは、強い人間・・・例えば権力や財力のある人間。
ちょうど蒼鬼のように地位も武力もある人間に、守ってもらうこと」
庇護だなんて、便利で聞こえのいい言葉だよねぇ・・・と先生がこぼす。
「でもそれは、昔の話ですよね・・・?」
窓の外からは初夏の日差しが降り注いで、さっきまで肌がちりちりしていたというのに。
車両の空調がおかしいのか、肌寒く感じて両腕を擦る。
先生は静かに続けた。
「そう、昔の話。
1人の渡り人が自分の知る限りの知識を国に与えたんだ。
理不尽な扱いを受けていた、彼らの地位を向上させることと引き換えにね。
それから国は、利益を与える渡り人を保護するようになった。
そして当初の思惑とは裏腹に、ことが進んでいってね。
今度は渡り人の保護を名目にして、囲い込む人間が続出。
・・・甘い蜜は、自分だけのものにしたいってとこかな」
それは、まるで遠い世界の話のよう。
全く現実味のない話だけれど、彼は現実として私に伝えようとしている。
「当然、その中には正義感を持って渡り人を守ろうする人間もいた。
でも、奴隷同然に囲い込むような、国家の膿ともいえる人間もいた。
そういうドロドロした歴史を歩いてきたこの国には、まだまだ渡り人を
この世界の人間と同等に扱えない、頭の悪い奴等が存在してるんだよ」
言葉の出ない私の顔を覗き込んで、先生が目を細めた。
瞳の奥に、強い光があるのに気づいた私は、きっとこれは本気の忠告なのだと、息を飲む。
「そういう奴等の温床が、今から君が向かう場所」
それはまるで、重罪の宣告のようだった。
私のような、一般市民を絵に描いたような人間が受け止めるには、あまりに重い。
「ああいう閉鎖的な場所は、古い価値観の身分のたかーい人が多いからね」
彼の言葉に血の気が引いてきて、頭が真っ白になりかけた時だ。
「だから、君が渡り人だっていうことは、なるべく伏せておいた方がいいよ」
先生が固まってしまった私の髪をゆっくり撫でながら、優しい声で言う。
私はそれに、こくこく頭を縦に振る。
残念ながら、もう抵抗するだけの気力もなかった。
「もしバレちゃっても、蒼鬼のコイン・・・だけじゃやっぱ心配だから、
コレもその紐につけておいて」
そう言って、彼は片耳だけにつけていたピアスを外そうとしていた。
黒い石が光る、フープピアス。
「・・・それ、や、なんでもないです」
「ん?」
言いかけてやめる。
同性愛の証に片方の耳だけにピアスしてるのかと思ってました、なんて、口が裂けても絶対に言わな方がいいだろう。
意味を知らなかったら説明も必要で、とても悲惨なことになるだろうし・・・。
たとえ都市伝説的な意味合いでも、それにカチンときて、またとんでもない行動で報復に出られたら非常に困る。
いつだって自分の身を守るのは自分自身だし、危険を招くのも自分自身だ。
私が1人で息を潜めて考えにふけっている間に、先生は手早く私の首にかかった紐に、ピアスを通してくれていた。
そして、最後にコインを指で弾く。
「・・・僕のだけで、完っ璧にミイナのこと守れると思うんだけどなぁ」
まぁいいや、蒼鬼の方が手をつけるのが早かったってことだしね、とブツブツ言っていた先生は、すぐに真剣な表情になって私の目を覗き込んだ。
「とにかく、その2つは君の身を保障するものだからね。
いちゃもん付けてきた輩がいたら、それ相応の覚悟があるのか聞いてみて。
すぐ引き下がると思うからさ」
「・・・その前に、そういう場面に遭遇しないことを祈って下さいよ・・・」
若干涙目で訴えると、先生は「そうだねぇ」とにこやかに笑ってくれた。
それからは、セクハラまがいのボディタッチを受け流しながら、なんとか無事に王都までたどり着くことが出来たのだった。
私に男認定されたからといって、その途端になりふり構わなくなった先生を止めるのは大変だったけれど・・・私の身の安全を考えてくれたことだし、と一応感謝の気持ちも持っている私は、彼の機嫌を損ねないようにあしらうことに神経をすり減らして・・・。
無事だけれど、大きなため息を吐いてしまった。
先生には、王立病院から馬車でのお迎えが来ていた。
馬車から出てきた白衣の初老のおじさんが「お疲れでしょうから」と言って、ぷるぷる震える先生の腕をがっしと掴んで若干引きずり気味に連れて行った。
あの人に今日のいろいろを伝えたら、鉄拳制裁を加えてくれたりするのだろうか。
思わず引き止めたくなる自分を叱咤して、私は笑顔でそれを見送った。
私はというと、王都ではエルゴンを動力にした乗り合いのバスが走っているので、王城の城門前の広場までそれに乗っていくことにして。
バスはもといた世界でも利用していたから、それほど戸惑うこともなく乗り込むことが出来て、ほっと息をついた。
せっかくだからと吊り革に掴まったまま、窓の外の流れる景色を眺めながら、心地よい車の揺れに身を任せる。
道路はレンガが敷き詰められて車が通れるようになっているし、家も木やレンガで出来ているように見えた。
全体的に温かい色合いの建物が多い道沿い、道路の脇にはガードレールの代わりなのか、背の低い木が植えられていて、雰囲気の良い街、というのが全体の印象だ。
街を歩く人の様子も、やはり農村よりは急ぎ足だけれど、忙しく働いて充実しているのかも知れないと思うと、それも好ましく目に映った。
忙しすぎると、いろいろと弊害も生まれるだろうけれど、もといた場所によく似た雰囲気を漂わせる王都の空気は、私でも馴染める気がして、頬が緩む。
胸元に手をやれば、コツンと爪がコインに当たる。
指でコインの上を撫でるようにすると、その紋章がなめらかに指を押し返した。