渡り廊下を渡ったら
しばらくぶりに耳にするバリトンの声に、ため息をひとつ吐いてから振り返る。
団長が私を見下ろしていた。
顔に「不思議」って書いてありますね、団長。
「そういう時は、遅くなってごめん、くらい言ってください・・・」
腰に手を当てて、格好を崩してため息混じりに言うと、何日かぶりに会う彼は、相変わらず眉間にしわを寄せてしまった。
「・・・遅くなってしまった。すまない」
「素直ですね・・・」
「君が言ったんだろう」
「そうですけど・・・」
手に持ったままのカップを弄ぶ。
なんとなく目を合わせづらくて、俯いた。
「どうした・・・?」
いつかと同じ優しい声に思わず視線を上げると、深い緑の瞳が瞬きもせず、こちらを見ている。
すると今度は、現金にも無意識に口元が綻ぶのを自覚しつつ、答えた。
「・・・なんでもないです。
お仕事、お疲れさまです。
怪我の具合は、もう大丈夫ですか・・・?」
「あぁ、問題ない。
・・・ここじゃゆっくり話せないな」
団長が周りを見渡して言う。
私もつられて見渡すと、食堂にいる人達のほとんどが驚いた顔でこちらを見ていた。
「・・・俺と普通に接している女性が、珍しいんだろう」
肩を竦めてそう言った彼が、歩き出す。
「外で待ってる。
手に持ってる物を返して来い」
「・・・はい」
一言答えて、私は手に持ったままだったカップを戻して、食堂を出た。
壁に寄りかかって腕を組んでいる団長の姿を見つけて、駆け寄る。
「お待たせしました」
「あぁ」
騎士団の制服は、オリーブ色の詰襟らしい。
帯刀しているので、なんだか今までより雰囲気が殺伐としている気がする。
孤児院を去る日にも目にしたけれど、背景が草原から王宮に変わるだけで、これほどにも雰囲気が変わるものかと思ってしまった。
「ジェイドからは、どこでも好きな場所を案内してやってくれ、と
頼まれているが・・・。
どこか見たい場所でもあるか?」
「うーん・・・特に・・・」
小首を傾げた私に、団長がふと気づいた、という風に言う。
「そういえば、荷物はどうした?
今日から寮に入るんだろう?」
「あぁ、それなら送りました。
院長が、重いだろうからって、運送会社に頼んでくれまして・・・」
おかげで、最小限の荷物だけで身軽に移動出来たのだ。
生活用品を一式1人で運ぶなんて、スーツケースもない世界では考えられない。
私の言葉に頷いて、彼は少し間をあけてから言った。
「そうか、なら・・・寮の部屋に運ばれているかも知れないな」
その日の同じ列車で運んでいると思うから、きっとそろそろ届く頃だろう。
頷いた私を見て、団長は腕を組んだまま口を開く。
「先に寮を見に行ってみるか・・・?
ジェイドには、どこに行ってもいいと言われたんだろう?」
「はい!
空き時間で荷物整理が出来たら、後がとってもラクになります」
「そうか。
なら、一緒に片付けるか」
ありがたい提案に勢いよく頷いた私は、団長の歩き出した方へついて行く。
すると歩き出して、すれ違う人達がサッと道を空けていることに気づいた。
確かに、立場的に騎士団団長よりも上をいく人間など数に限りがあるのだろう、とは想像がつくのだけれど・・・隣を歩く私のことまで、奇異の目で見ている人もいる・・・。
もしや私が、王宮にそぐわない身なりでもしているのかと思って不安になった。
「団長、」
歩きながら小声で問いかける。
しかし聞こえなかったのか、彼は前を向いたままだ。
「団長?」
気づいてもらいたくて、制服の裾をつまんで引っ張るけれど、彼は一瞥をくれただけ。
一瞬だけ目が合ったかと思えば、すぐに視線を前に戻してしまった。
・・・無視された・・・?
若干の緊張感を抱きながら横顔を見上げると、少しだけ強張っているような気がする。
心なしか、まなじりも上がっているような・・・。
「あの、団長っ」
もう一度裾を引っ張ってみるけれど、同じだった。
これはやはり、無視されている。
確信した私は、彼の広い歩幅に小走りになりながら考えて、やがて思い至った。
・・・あぁ、呼び方がまずかったのか・・・。
正直、年上の男の人を呼び捨てにするなんて、あまり得意ではないのだけれど・・・。
「・・・シュウ、」
ぴた、と彼が急に立ち止まる。
恥ずかしさもあって練習のつもりで、小声になって呼びかけた私は、まさか聞こえているとは思っていなかった。
「・・・っと・・・」
小走りになっていたから、急に立ち止まった彼よりも、何歩か先に進んでしまったではないか。
慌てて振り返ってみると、そこには大きく目を見開いた団長の姿。
「・・・どうしました?」
機嫌直りました?のつもりで問いかければ、
「いや、」
どうも歯切れの悪い言葉が返ってくる。
それでも、目つきが優しくなっていたから、とりあえずこれ以上小走りでついて行くこともないだろう、と内心で息をついた。
「すまない、速く歩きすぎたな・・・」
そう言って何かから立ち直ったような彼は、私の背に手を添えて歩き出した。
温かなものが背に当たっているのを感じて、なんだかむず痒さを覚えてしまう。
戸惑っている私を、その大きな手がそっと前へと押し出して、私の足が勝手に進んでいく。
・・・そういえばジェイドさんも、こんなふうにして歩いていたけれど、この世界の大人の男性達はこういうものなの・・・?
そう思うものの口にするべきだとは思えない私は、されるがまま歩くしかなかった。
すると、その場に居合わせた人達が、驚愕の表情で固まっていたのに気づく。
「どうして皆、びっくりしてるんです・・・?」
さっきよりも彼との距離が近い。
茶色い髪が目にかかりそうなのを払いたい衝動を抑えつつ、私は問いかけた。
すると、答えがすぐに、短く的確に返ってくる。
「蒼鬼と普通に話しているからだろうな。
・・・俺と対等に話そうという連中は、王宮にはあまりいない」
どうでもいい、他の連中に興味はない、と言外に匂わせる言い方に、私は言葉を失った。
食堂で聞いた、少なくとも善意があるとは思えない連中の言葉がフラッシュバックする。
・・・王宮は、彼に優しくないのだろう。
「・・・それって、シュウが陛下の従兄弟だからですか・・・?」
彼が口を噤み、一瞬背中に回された手に力が入る。
「・・・聞いたのか」
ため息と一緒に、肯定ともとれる言葉を吐く。
「ええと、食堂でたまたま耳にして・・・」
「・・・悪かった。隠しているつもりは・・・」
「分かってます、ひけらかすような人じゃないって・・・」
確かに驚いたけれど、決して憤っているわけじゃない。
「ごめんなさい、悪いことをしたわけじゃないのに謝らせたりして・・・。
そういうつもりじゃ、ないんです・・・」
背中に当てられる熱を感じながらそっと言葉を紡ぐと、見上げた先、深い緑の瞳が少しだけ見開かれたのが見えた。
そして、そんな彼の表情を見ていたら、ふと、孤児院で交わした言葉や、コインを首に結んでくれた時のことが思い出された。
・・・なんだか、胸の奥がじんわりする。
突き詰めていったら、その正体が分かるような気もしたけれど、知りたいと思う気持ちもあったけれど・・・。
私はそんな思いを振り切るように声を弾ませて、彼のことを見上げる。
「荷物、重いものもあるので、よろしくお願いしますね」
そんな私の言葉に、彼はほっとしたような顔をして頷いてくれた。
寮・・・とは言っても、3階建てのアパートのような雰囲気の建物だ。
王宮と同じで、外装は石造りになっていて、部屋の中は絨毯が敷いてある。
外壁には蔦が伸びて、なんだか外国の古い建物のようで、恥ずかしながら、少し古くなった乙女心が高鳴ってしまった。
王宮関係で働く人が緊急の場合にすぐ駆けつけられるように、用意したらしい。
管理人さんが入り口に居て、防犯面もそれなりに安心だ。
ちなみに、団長も同じ建物の3階に部屋があるらしい。
1階より2階、2階より3階の方が部屋が広くて、仕事の地位も上だという。
私は2階の部屋だそうだ。
皇子様の子守なのだから、本来ならば3階に、とのことだけれど、今は3階が満室になっているために、順番待ちだという。
・・・個人的には、2階の部屋で十分だ。
団長と同じフロアになるというのも、顔を合わせる機会が多くなりそうで、それもどうかと思う。
ひと通り部屋の中を見て回ると、1人で過ごすには十分な大きさのキッチンとバス、トイレも付いているし、生活しやすそうだった。
ちなみに、荷物は団長の予想通り部屋に届いていた。
管理人さんが、親切に荷物を入れておいてくれたらしい。
てっきり寮母さんがいるようなところだと思っていたから、シーツや毛布を用意するのを忘れていた私は、事情を知った団長が自分の部屋で余っているものを貸してくれるというので、ありがたくお借りすることになった。