渡り廊下を渡ったら
彼が部屋に戻っている間に、窓を開けて風を入れながら、荷を解いていく。
それほど多くはない服をクローゼットにしまってからバスルームを片付けていたら、ノックの音がして「どうぞ」と返事をする。
すると、ドサっ、と大きな音がした。
顔を出せば、彼が寝具を一式をベッドに置いてくれた音だったのだと分かる。
「ありがとうございます」
「ああ。これで足りなかったら言うといい」
「はい」
ひとつ返事をして、もう一度バスルームに戻る。
院長から小さなボトルに入ったシャンプーや、洗濯用の洗剤を持たされていたので、それを一通り備え付けの棚に並べていった。
・・・これで、当面は生活は心配なさそうだ。
少しずつ生活感の漂い始めたバスルームを眺めて、ひとまず終了だ、と息をつく。
「・・・何か手伝うことはあるか?」
並べるのに熱中していたのか、いつのまにか団長が背後に立っていたことに気づかなかった。
内心驚いた私は、一瞬息を詰めてから首を振る。
「・・・ううん、もうこれで一通り終わりました。
おかげさまで、新しい生活を始められそうです」
「そうか」
微笑んで言えば、彼も頬を緩めて答えてくれる。
どういうわけか、私はこの人と話すと和んでしまうらしい。
・・・ジェイドさんも、十分に和み要素があるとは思うのだけれど。
「そういえば・・・」
ふと、団長が声を落とした。
少しの間意識を別のところへ向けていた私は、なんとなく違和感を覚えて眉根を寄せた。
「何です・・・?」
・・・何か足りないものでもあったかな。
そう思って考えを巡らせるけれど、何も思いつかない。
ならば、一体何を言うつもりで、彼は眉間にしわを寄せたのだろう。
「・・・ミナ」
急にバスルームに低い声が響いた。
初めて耳にする、彼の怒っているらしい声だった。
無表情でこちらを見つめる団長に、思わず身体が強張る。
「・・・はい・・・っ」
きちんと返事をしたつもりなのに、思うように声が出せなかった。
意識してしまうと、彼があまりに近くにいて呼吸すら思うように出来ないのだ。
すると、彼はそんな私に向かって不敵な笑みを浮かべつつ、すっと手を伸ばす。
その手で何をされるのか、ただ待つしかなかった私に、彼が静かに言う。
「気になってはいたが・・・これはどうしたんだ・・・?」
緊張で張り詰めているはずの私の肌は、彼の熱い指先が触れたのをしっかり感じ取って、わずかに震える。
彼が手を伸ばして、私の胸元に光るコインに触れたのだ。
いや、コインではない。
彼が指しているのは、もしかして、黒い石のことなのか。
思い至った私が答えあぐねていると、急に強い力で腰を抱かれて引き寄せられた。
蒼鬼と恐れられるほどの彼の腕の力に、私なんかが敵うわけがない。
あっと息を飲んだ瞬間に、ただでさえ近いと思っていた距離をさらに詰められて、私は頭がどうにかなりそうだった。
「ちょっ・・・」
「・・・これは?」
だんまりは認めないらしい。
とりあえず近すぎる、と腕をつっぱって、彼の胸を押したけれど、彼は顔色ひとつ変えなかった。
拒絶すらさせてもらえないなど、暴挙にもほどがある。
こんなに近づいて問い詰める必要、あるんだろうか。
彼は分かっていないのだ。イケメン耐性のない私には、会話能力が著しく低下してしまうこの方法は得策ではないということを。
私がそんなことを考えている間にも、彼は抱き寄せている腕の力を緩めることもなく、ただ私の言葉を待っている。
深い緑の瞳が、早く言え、と催促していた。
「・・・リュケル先生・・・孤児院のお医者様、覚えてますよね?
今朝、同じ列車で王都に来たんです。
その時に、だんちょ・・・シュウのコインだけじゃ心配だと言って・・・
この石を・・・」
大筋で間違ってはいないはずだ。
聞きたくなかったカミングアウトもあったけれど、そのあたりは割愛しよう。
私もすっかり忘れていたくらいだし、この人に言う必要はない。
催促された通り、質問に正直に答えたというのに、黒い石を触っていた彼はどういうわけか、更に不敵な笑みを浮かべた。
「・・・そうか。奴が、な」
完全に勇者を迎え撃つ魔王様の微笑みだ・・・などと思いつつも、沈黙を保つ。
そんなくだらないことでも考えていないと、この距離の近さに頭の中が沸騰してしまいそうで。
そうやって必死に気を逸らしていると、小さく、金属のぶつかる音が耳に響いた。
私はすぐに、彼が黒い石を紐から外したのだと気づく。
「・・・え?」
まさか外すなんて思ってもいなかった私は、間の抜けた声が出てしまった。
思わず彼の顔を仰ぎ見てしまうと、その深い緑色の瞳が、静かに怒っているのに気づく。
・・・しまった。
何に怒っているのかは分からないけれど、私は何かまずいことをしたらしい。
「この石が、必要か?」
低い声で、獣が唸るように尋ねられた。
「いえ、必要は全くないんですけど・・・」
それに対して私が言いよどむと、彼が「けど」の部分を聞いた瞬間に眉を跳ね上げる。
「・・・あの、リュケル先生が思いのほか粘着質で・・・」
咄嗟に、私が欲しくてもらった物ではない、ということを伝えると、彼はいくらか表情を和らげて手の中の黒い石を制服のポケットにしまった。
怒りのオーラが収まった様子に、私は内心で大きく息をつく。
確かに、この人の後見を得ていれば、王宮内で誰かに悪意を向けられる心配は、あまりしなくても大丈夫だろう。
誰も、彼を怒らせたいなどと思わないのではないかと思える。
「・・・心配するな。
奴には俺から伝えておく」
・・・一体何を伝えるつもりですか・・・。
知りたいような、知りたくないような気持ちでその言葉に頷くと、彼は私を満足げに眺めて、やっと腕の力を抜いてくれる。
ただ、未だに抱き寄せられたままなのが気になるところだ。
離してはくれないのか。
「・・・あの・・・?」
強引にされれば殴ってでも拒絶したくなるのに、どうして優しくされると強く出ようと思えなくなるのだろう。
ただでさえ、彼は私の身元を保証してくれる後見人なのだ。
まさか、何かを要求されることなどありはしないと思うけれど、ここで心象を悪くするのも自分が得をするとも思えない。
一瞬のうちにいろいろと考えていると、緑の瞳が柔らかく細められた。
・・・怒りの次は、一体何・・・?
探ろうとして、見つめてしまった。
「まだ、何か・・・?」
「いや、何も・・・?」
・・・何の言葉遊びなのか。
そう思いながらもしばらく見つめ合うと、やがて彼の手が離れていった。
やめて欲しいと思うのに、体温が離れたら心なしか物足りなくも感じる自分がいる。
・・・バスルームは、少し冷えるらしい。
そして、そうこうしてるうちに、いつの間にか日が傾いてきた。
約束では、レイラさんの部屋で顔合わせがあるはずだ。
「・・・そろそろ行きましょうか」
窓から見える街を眺めて、団長に説明してもらっていた私は、そっと切り出した。
近すぎず、離れもせずのちょうどいい距離を保っていた彼が頷いて、窓を閉める。
そして、思い出して私は2つ受け取った部屋の鍵の1つを、団長に渡そうと突き出した。
彼が、眉間にしわを寄せる。
きっと説明を求めているのだろう、と察した私は、口を開いた。
「合鍵です」
「・・・いや、それは見れば分かるが・・・」
初めて見る彼の戸惑った姿に、バスルームでの仕返しをしているような気分になって、私は思わず頬を緩めてしまう。
「・・・勘繰らないで下さいね」
「・・・」
・・・図星だったのか。
確かに、合鍵から連想することなんて、あまり多くはないだろうけれど・・・。
沈黙した彼に、どこか冷めた視線を送りたくなるのを堪えて、私はもう一度口を開いた。
「私、王都に知り合いがいないんです。
他に、困った時に助けてくれそうで、合鍵を頼めそうなのって・・・」
言いながら視線を彷徨わせて考える。
思い出したのは、金髪碧眼の彼くらいだった。
「・・・ジェイドさんくらいですかねぇ。
レイラさんは、王宮から出られないし・・・。
陛下なんて絶対に無理だし・・・。
ああでも、管理人さんでもいい、」
半ば自分への呟きになった言葉の途中で、彼が私の手ごと合鍵を握りこむ。
文字通り、ぱしっ、とだ。
本人は意識していないだろうけれど、咄嗟に出た手というのは、思っているよりも力がこもっているものだと知っておいてもらえないだろうか。
「あの、痛い・・・」
「俺が預かる」
「ありがとうございます、痛いです・・・」
当初の思い通りに預かってもらえるのだから、頷くに決まっているというのに、彼は手に力を込めたまま私の目を見据えた。
「今日会ったばかりの奴に預けていいわけがないだろう」
「分かってます、離して、痛いです」
「・・・リュケルの石といい、君は危なっかしいな・・・」
「すみません、ほんとに痛いんです・・・!」
このやり取りの後、解放された時には手のひらに鍵の痕がしっかり残っていた。
・・・ああいう時は、もう少し強く出るべきなのか。