渡り廊下を渡ったら
3
ざわざわと、人の気配がする。
意識に重りがついたように、下の方へと引っ張られる感覚に逆らうことなく、私は閉じた目をそのままにしていた。
・・・まだ寝てたいんだけどな・・・。
人の気配が、肌にちりちりと障って不快だ。
「あら、まだ寝かせてあげたら?」
院長の声がした。
「そうですねぇ・・・。
じゃあ、今のうちに今月分の採血しちゃおうかしらー」
中途半端な声色が、鼻唄混じりに呟くのと同時に、かちゃかちゃ、と何だか金属のぶつかり合うような、とても耳障りな音がした。
私はその音がとても嫌いだ。
・・・さいけつ・・・採血?!
重りがついていたはずの意識が酸素を求めるように勢い良く浮上して、覚醒するギリギリのところで血の気がザッと引いていくのが分かった。
まぶたが重いのは気合で無視して、ガバっと起き上がる。
「!!!」
注射は嫌だと言いたいのに、言葉が上手く出てこなかった私は、ずささーっと柔らかいものに手を取られながらも、端に移動して身をちぢこませる。
視線をあっちにこっちにと彷徨わせると、注射針を今まさに差し込もうとしていた医師が、そのままの姿勢で固まっていた。
そして我に返る。
「・・・あ、あれ?」
自分でも間抜けな声が出た。
ここは、どこだろう・・・。
クリーム色の壁に、花の絵がかけられているのに気づいた私は、自分がベッドに寝かされていたのだと分かった。
「気分はどう?」
院長のほんわかした微笑みに、一気に正気に戻る。
私、気を失っていたんですね・・・。
「・・・だい、じょぶ、です・・・。
ちょっと色々びっくりしましたけど・・・・あああ、その物騒なものは片付けて下さい!」
まだ注射器を構えている医師に、ちゃんと断っておく。
注射は苦手なのだ。本当に。
「あーあ、またお預けかぁ・・・。
いい加減降参して、今月分、納めちゃえばいいのに。
・・・最初は痛いけど、そのうちよくなってくるし、優しくするわよ?」
「自己規制を要求します」
こういう人は、まともに取り合わない方が良いと思う。
残念そうに注射器をしまう医師をよそに、院長に向き直る。
「あなた達のやりとりって、いつも面白いわねぇ。
そうそう、気を失って医務室に運ばれてきたの。
・・・蒼の騎士団の、1等騎士にお姫様抱っこされて」
最初と最後のコメントには触れないことにして、私は頷いた。
「やっぱり。
運んでくれた騎士さまには、お礼を言わなくちゃですね。
そういえばリュケル先生、あの人はどうなったんですか?」
『あのひと?』
二人そろって首をかしげる。
「はい。あの、私にのしかかってきた人です」
「あぁ。あれね・・・。
隣の個室にいるよ」
リュケル先生が指差す先にはドアがあり、開いていた。
目隠しカーテンが、風に吹かれてゆらゆら揺れている。
ちらっと、ベッドにうつぶせに寝かせれている、男の人の背中が見えた。
背中に、何かが乗っかっているようにも見えるけれど・・・。
私は良く見えなくて、目を凝らす。
「そういえば、彼はあのまま放置していて大丈夫なの?」
院長が思い出したように尋ねた。
「ん?・・・あぁ、あれは後回しでいいんです」
二人の会話を片耳で聞き流す。
お兄さんの様子が気になって、どうしても目が離せなかった。
あの深い緑の瞳が、まるっと私を映し出していた様が脳裏に蘇ってくるのだ。
倒れたということは、意識がないということで。
意識がないということは、お世辞にも大丈夫とは言えないということだ。
お兄さんの声が耳に蘇る。
いろいろと考えが巡っていたその時、彼らの会話が耳を貫いた。
「でも、背中にナイフがささってたわよ?」
「あー。あれは抜いちゃうと出血しますから。
抜かないかぎり、大丈夫。
気を失ったのは、眠ってないからだと副団長に聞きましたし・・・。
だいたいねー、騎士のくせに背中をやられるなんて、基本がなってないんですよ!」
ナイフ、と聞いた瞬間、男の人の左肩の下に、ナイフが刺さっているのが目に入った。
「・・・っ!!」
悲鳴になりそこねた声が、ひゅっと口からもれた。
「先生!」
自分が気を失って運ばれたことなんて忘れて、私はベッドを飛び降りた。
心臓も、体の持ち主が急に動くなんて予想もしていなかっただろう。どくどくと懸命に動きについてこようと血液を送り出しているのが分かる。
ぐらつく足元を叱咤して、私はなんとか先生にすがりつく。
「やだ、大丈夫?」
「嬉しそうにしないで下さいそして早く職務に戻ってください!
あの人、怪我してるじゃないですか!」
ベッドサイドの椅子に腰掛けていた先生は、ゆっくり立ち上がる。
そしてやけに艶めいた目をして、ゆっくりと、細い指で私のあごをなぞる。
「ふふ。それだけ大声出せれば大丈夫ね・・・。
もう、心配かけないでよね」
指を離しながら、「次は採血させてちょうだいね」なんて言い残す。
先生のそんな表情や仕草を見るのは、決して初めてではないのに、私は魅入られてしまったように動くことが出来なかった。
そして先生は、ベッドサイドの椅子に腰掛けていた院長に向き直る。
「それじゃあ院長、治療に戻りますね。
あぁ、君は右肩がアザになっていたからね。
3日ほどは痛みを感じるような作業はしないように。
他もすみずみまで見たけど、異常はなかったから安心して」
そう言って、先生は個室の中へ消えていった。
最後の台詞があまりにも意味深で、私はため息を吐くことしか出来なかった。
廊下を歩きながら、院長がふふ、と笑い声をこぼす。
「どうしたんですか?」
「いいえ」
とは言うものの、彼女はとても楽しそうにこちらを見る。
私が訝しげに見返すと、院長はさらに笑みを深めて言った。
「リュケル先生ったら、本当にあなたのこと好きなのね」
子ども達の声が、食堂の方から聞こえた。
もうお昼か。思ったより長いこと、気を失っていたようだ。
「いやー、リュケル先生は男性ですけど、心は女性ですからね」
そう、リュケル先生は男性だけど、女性の身体より男性の筋肉質な身体の方が好き、と言われたことがあった。
私は偏見も差別もしないけど、子ども達の健康を管理する人が、あれでいいんだろうか。
少なくとも、ナイフの刺さった人を放置して、私に注射をしようだなんて許されない。
決して意識のない時に注射されそうになったから、怒っているわけではなく。
ともかく、先生はユタさんや騎士団の皆さんからは変態認定されそうだな、なんて思ってはいた。
けれど、ここのルールブックは院長だ。
彼女が何も言わないでいるのだし、きっとあれでいいのだろう。
・・・だいぶこの世界に馴染んだと思うけど、まだまだだってことですか。そうですか。
「そうなのかしら。
若い人たちがうらやましいわ~。
私もあと30歳若かったら、素敵な人と第3の人生を楽しめるのだけれど」
うふふ、と笑う院長は、3年前に夫を亡くしている。
私が渡ってくる、1年前のことだ。
夫に先立たれ、遺された品々を整理していると、手紙が出てきた。
その手紙には、自分の財産を妻に半分、残りの半分は孤児院かどこかに寄付したいという内容だった。
院長は、それならば、自分が孤児院も開設、経営して、亡き夫の願いを叶えようと考えたのだそうだ。
いつも、院長は思い出話をする時、とても優しい目をする。
今も窓から中庭にあるオレンジ色の小さな花がたくさんついた木を見つめている。
その木が、院長と旦那さまの思い出の木なのを、私は前に聞いて知っていた。
「院長の第3の人生は、この孤児院なんですよね」
彼女は窓の外から視線をはずし、こちらを振り返る。
そして、やっぱりほんわか笑って言った。
「ええ。ここを、私とあの人の想いが実る場所にするの」
院長の、亡き夫を想う微笑みを見ると、胸がきゅっと軋む。
それは、もう戻れない場所への想いと似ているような気がするから。
・・・今が不幸だなんて、私はこれっぽっちも思ってないけれど。
「さ、今日は部屋でゆっくり休んで。
私は副団長と、今後の予定についてお話してこなくちゃ」
「・・・じゃあお言葉に甘えて、今日はゆっくりさせてもらいますね」
こうしていつもとは違う一日が終わっていった。
意識に重りがついたように、下の方へと引っ張られる感覚に逆らうことなく、私は閉じた目をそのままにしていた。
・・・まだ寝てたいんだけどな・・・。
人の気配が、肌にちりちりと障って不快だ。
「あら、まだ寝かせてあげたら?」
院長の声がした。
「そうですねぇ・・・。
じゃあ、今のうちに今月分の採血しちゃおうかしらー」
中途半端な声色が、鼻唄混じりに呟くのと同時に、かちゃかちゃ、と何だか金属のぶつかり合うような、とても耳障りな音がした。
私はその音がとても嫌いだ。
・・・さいけつ・・・採血?!
重りがついていたはずの意識が酸素を求めるように勢い良く浮上して、覚醒するギリギリのところで血の気がザッと引いていくのが分かった。
まぶたが重いのは気合で無視して、ガバっと起き上がる。
「!!!」
注射は嫌だと言いたいのに、言葉が上手く出てこなかった私は、ずささーっと柔らかいものに手を取られながらも、端に移動して身をちぢこませる。
視線をあっちにこっちにと彷徨わせると、注射針を今まさに差し込もうとしていた医師が、そのままの姿勢で固まっていた。
そして我に返る。
「・・・あ、あれ?」
自分でも間抜けな声が出た。
ここは、どこだろう・・・。
クリーム色の壁に、花の絵がかけられているのに気づいた私は、自分がベッドに寝かされていたのだと分かった。
「気分はどう?」
院長のほんわかした微笑みに、一気に正気に戻る。
私、気を失っていたんですね・・・。
「・・・だい、じょぶ、です・・・。
ちょっと色々びっくりしましたけど・・・・あああ、その物騒なものは片付けて下さい!」
まだ注射器を構えている医師に、ちゃんと断っておく。
注射は苦手なのだ。本当に。
「あーあ、またお預けかぁ・・・。
いい加減降参して、今月分、納めちゃえばいいのに。
・・・最初は痛いけど、そのうちよくなってくるし、優しくするわよ?」
「自己規制を要求します」
こういう人は、まともに取り合わない方が良いと思う。
残念そうに注射器をしまう医師をよそに、院長に向き直る。
「あなた達のやりとりって、いつも面白いわねぇ。
そうそう、気を失って医務室に運ばれてきたの。
・・・蒼の騎士団の、1等騎士にお姫様抱っこされて」
最初と最後のコメントには触れないことにして、私は頷いた。
「やっぱり。
運んでくれた騎士さまには、お礼を言わなくちゃですね。
そういえばリュケル先生、あの人はどうなったんですか?」
『あのひと?』
二人そろって首をかしげる。
「はい。あの、私にのしかかってきた人です」
「あぁ。あれね・・・。
隣の個室にいるよ」
リュケル先生が指差す先にはドアがあり、開いていた。
目隠しカーテンが、風に吹かれてゆらゆら揺れている。
ちらっと、ベッドにうつぶせに寝かせれている、男の人の背中が見えた。
背中に、何かが乗っかっているようにも見えるけれど・・・。
私は良く見えなくて、目を凝らす。
「そういえば、彼はあのまま放置していて大丈夫なの?」
院長が思い出したように尋ねた。
「ん?・・・あぁ、あれは後回しでいいんです」
二人の会話を片耳で聞き流す。
お兄さんの様子が気になって、どうしても目が離せなかった。
あの深い緑の瞳が、まるっと私を映し出していた様が脳裏に蘇ってくるのだ。
倒れたということは、意識がないということで。
意識がないということは、お世辞にも大丈夫とは言えないということだ。
お兄さんの声が耳に蘇る。
いろいろと考えが巡っていたその時、彼らの会話が耳を貫いた。
「でも、背中にナイフがささってたわよ?」
「あー。あれは抜いちゃうと出血しますから。
抜かないかぎり、大丈夫。
気を失ったのは、眠ってないからだと副団長に聞きましたし・・・。
だいたいねー、騎士のくせに背中をやられるなんて、基本がなってないんですよ!」
ナイフ、と聞いた瞬間、男の人の左肩の下に、ナイフが刺さっているのが目に入った。
「・・・っ!!」
悲鳴になりそこねた声が、ひゅっと口からもれた。
「先生!」
自分が気を失って運ばれたことなんて忘れて、私はベッドを飛び降りた。
心臓も、体の持ち主が急に動くなんて予想もしていなかっただろう。どくどくと懸命に動きについてこようと血液を送り出しているのが分かる。
ぐらつく足元を叱咤して、私はなんとか先生にすがりつく。
「やだ、大丈夫?」
「嬉しそうにしないで下さいそして早く職務に戻ってください!
あの人、怪我してるじゃないですか!」
ベッドサイドの椅子に腰掛けていた先生は、ゆっくり立ち上がる。
そしてやけに艶めいた目をして、ゆっくりと、細い指で私のあごをなぞる。
「ふふ。それだけ大声出せれば大丈夫ね・・・。
もう、心配かけないでよね」
指を離しながら、「次は採血させてちょうだいね」なんて言い残す。
先生のそんな表情や仕草を見るのは、決して初めてではないのに、私は魅入られてしまったように動くことが出来なかった。
そして先生は、ベッドサイドの椅子に腰掛けていた院長に向き直る。
「それじゃあ院長、治療に戻りますね。
あぁ、君は右肩がアザになっていたからね。
3日ほどは痛みを感じるような作業はしないように。
他もすみずみまで見たけど、異常はなかったから安心して」
そう言って、先生は個室の中へ消えていった。
最後の台詞があまりにも意味深で、私はため息を吐くことしか出来なかった。
廊下を歩きながら、院長がふふ、と笑い声をこぼす。
「どうしたんですか?」
「いいえ」
とは言うものの、彼女はとても楽しそうにこちらを見る。
私が訝しげに見返すと、院長はさらに笑みを深めて言った。
「リュケル先生ったら、本当にあなたのこと好きなのね」
子ども達の声が、食堂の方から聞こえた。
もうお昼か。思ったより長いこと、気を失っていたようだ。
「いやー、リュケル先生は男性ですけど、心は女性ですからね」
そう、リュケル先生は男性だけど、女性の身体より男性の筋肉質な身体の方が好き、と言われたことがあった。
私は偏見も差別もしないけど、子ども達の健康を管理する人が、あれでいいんだろうか。
少なくとも、ナイフの刺さった人を放置して、私に注射をしようだなんて許されない。
決して意識のない時に注射されそうになったから、怒っているわけではなく。
ともかく、先生はユタさんや騎士団の皆さんからは変態認定されそうだな、なんて思ってはいた。
けれど、ここのルールブックは院長だ。
彼女が何も言わないでいるのだし、きっとあれでいいのだろう。
・・・だいぶこの世界に馴染んだと思うけど、まだまだだってことですか。そうですか。
「そうなのかしら。
若い人たちがうらやましいわ~。
私もあと30歳若かったら、素敵な人と第3の人生を楽しめるのだけれど」
うふふ、と笑う院長は、3年前に夫を亡くしている。
私が渡ってくる、1年前のことだ。
夫に先立たれ、遺された品々を整理していると、手紙が出てきた。
その手紙には、自分の財産を妻に半分、残りの半分は孤児院かどこかに寄付したいという内容だった。
院長は、それならば、自分が孤児院も開設、経営して、亡き夫の願いを叶えようと考えたのだそうだ。
いつも、院長は思い出話をする時、とても優しい目をする。
今も窓から中庭にあるオレンジ色の小さな花がたくさんついた木を見つめている。
その木が、院長と旦那さまの思い出の木なのを、私は前に聞いて知っていた。
「院長の第3の人生は、この孤児院なんですよね」
彼女は窓の外から視線をはずし、こちらを振り返る。
そして、やっぱりほんわか笑って言った。
「ええ。ここを、私とあの人の想いが実る場所にするの」
院長の、亡き夫を想う微笑みを見ると、胸がきゅっと軋む。
それは、もう戻れない場所への想いと似ているような気がするから。
・・・今が不幸だなんて、私はこれっぽっちも思ってないけれど。
「さ、今日は部屋でゆっくり休んで。
私は副団長と、今後の予定についてお話してこなくちゃ」
「・・・じゃあお言葉に甘えて、今日はゆっくりさせてもらいますね」
こうしていつもとは違う一日が終わっていった。