渡り廊下を渡ったら
雲が切れて、月の光が私達を照らしだした。
私は目の前で私を見下ろす瞳を見つめ返しながら、考えを巡らせる。
この人は蒼の騎士団の団長。国の治安を守るための組織。
渡り人、という単語が一般常識として浸透しているくらいだ、エイリアンや珍獣扱いはされないと思うけれど・・・。
歴史の中で、文明の発達した世界から渡ってきた人間が、皆そろって善人だったなんて有り得ないことだと思う。
渡り人である私が思うのだから、きっと目の前に立つ彼の瞳が刃のように研ぎ澄まされているのも当然といえば当然なのだろう。
団長の顔を見るのが怖いと感じてしまったら、冷たいものが、背中を伝った。
「あの・・・?」
「あぁ、すまない。唐突すぎた・・・。
ただ、少し気になっただけだ」
乾いた声で問えば、すぐに言葉がかえってきた。
仰ぎ見てみれば、思ったよりも穏やかな表情の団長が私を見ていた。
その表情を見て、ああそうか、と思い至る。
私が危険視されていたら、とっくに院長が手を打っているはずなのだ。
あそこは子どもの暮らす場所なのだから・・・。
追い詰められた気持ちが、ゆっくりほどけていく感覚に、私は詰めていた息を吐き出した。
「・・・違うのか?」
深い緑の瞳が、黒髪の私を写す。
「どうして、そう思ったんですか・・・?」
「まず、黒髪と黒い瞳、見た目と実年齢の差があること。
以前機会があって、記録に目を通したのを思い出した。
他の色を持つ渡り人に比べて、黒髪に黒い瞳の渡り人は、総じて幼く見えるらしい」
「記録、が、あるんですか・・・?」
私の声は、ちゃんと出ているだろうか。
言葉が喉につかえて、上手く話せないのだ。
「あぁ、王都の図書館に。といっても、閲覧資格が厳しい資料ではあるが・・・。
まずは、男装に対して全く抵抗がないことか。
それから髪を下ろして男の前に立っても顔色一つ変えずにいること・・・。
まあ、全ての記録を覚えてはいないからな・・・」
言葉を並べた団長は「また間違っていたら申し訳ないが」と付け加えた。
私は、そっと息をついた。
「いえ、合ってます。
私は2年前に、もといた世界からこちらへ渡ってきました」
口にすると、少し胸が軋んだ。
もう、平気だと思っていただけに自分に驚いてしまう。
あちらで暮らした時間の方が、圧倒的に私の人生を占めているのだから当然か。
団長は無言で先を促している。
「あちらでは、保護者が働いている間、子どもを預かる施設で働いていました。
働いて2年目の、雨の多い季節のことでした。
施設の中にある、渡り廊下を小走りに・・・気づいたら、孤児院のベッドの上でした」
だいぶ省いた説明だったけれど、団長は軽く相槌を打ちながら聞いていた。
「そうか。
突然もといた世界から切り離されて、身の引き裂かれる思いをしたことだろうな」
気遣わしげな声色。
この人は、こんなに優しい表情も出来たのかなんて、失礼な感想を抱いてしまった。
そして、久しぶりにこの話をしたら、なんだか気が滅入ってしまった私は、ゆっくりと頭を振って口を開く。
「そりゃあ、当初は。でも、泣き暮らす期間はもう終わりましたから」
「・・・そうか」
月明かりが、静かに私達を照らす。
一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
言葉が途切れて、どちらからともなく歩き出した。
「あの、図書館にある資料は、私でも閲覧できるんでしょうか?」
ふと思いついて、尋ねる。
もうとっくに諦めていたけれど、もしかして、渡り人が帰還した前例がないか調べられるかも知れない。長い歴史の中には、誰か1人くらい・・・と思ってしまうのは、馬鹿げているだろうか。
これが馬鹿馬鹿しい望みだと鼻で笑えるくらいには、私も分かってはいるのだけれど。
団長は私の問いに、しばらく考えた後、なんとも歯切れの悪い言い方をした。
「そうさせてやりたい気持ちはあるんだが、今のままでは不可能だ。
いや、だが・・・・君が王都で仕事をすれば、可能になる、かも知れない」
何か考えながら、思いついたことを纏めながら話しているのだろうか。
いやに歯切れの悪い言い方をする彼に、思わず尋ねていた。
「それは、どういうことです?」
「いや、まだなんとも言えないが・・・・。
王宮内で、子守が必要な方がおられる。その方のもとで働けば、可能かも知れない。
もちろん君の素性を全て知らせる必要があるし、院長の推薦がなくてはいけない。
あぁ、あとは女性の格好をしなくては」
団長は、半分自分に話しているかのように、いくぶんか早口で言い切った。
「なるほどー・・・。
でも、私が王都で働くなんて、なんだか現実的ではないような気もしますよ?」
なんたって渡り人なのだ。
王宮に、どこの馬の骨とも知れない人間を雇うのは、国家的にどうなのか?
・・・私でもわかる。
貴族の監視と王宮の安全管理をする【紅の騎士団】、王族の警護と王国所有の物を管理する【白の騎士団】が黙っていないと思う。
思いつきの話が、しかも王宮関連の話が、そんなに簡単に実現するわけがない。
私は団長の話を片耳で聞いていた。
「いや、身分的なものなら心配ない。
私が後見になるし、院長も推薦状を用意するだろう」
・・・思いつきの話が大きくなってきてしまったけど、大丈夫なの・・・?
歩きながらも、不安で足が重くなってきた。
突然新しい世界が目の前に開けても、もうそこに飛び込むだけの思い切りは持てない。
冒険や挑戦は、私には遠い話だ。
「要するに、まずは君の気持ち次第だ」
「えっ」
降って沸いた就職話に、思わず声が出る。
急に私の気持ちについて言及されてしまって、現実味が迫ってくるような気がした。
「いや、あの、急すぎてちょっと頭がついていけないっていうか、
私、こっちに来て自分の身の振り方を考える余裕もなかったし・・・」
自分でもうろたえているのが分かる。
それはそれは、滑稽なのだろう。
団長が若干吹き出して言った。
「いや、いい。
確認してもいない話をしてしまって申し訳ないが・・・」
私はブンブンと首を振る。
「とんでもない!
ここまで気にかけてもらえたら、それだけで有り難いですよ」
その一言に、団長は相槌をうった。
遠くに、孤児院が見えてきた。
街道には、ところどころに明かりが埋められていて、その優しい明かりはイルミネーションのようで、私はとても気に入っている。
「あぁ、そういえば」
ふと気になって、聞いてみた。
「髪を下ろすのに抵抗がないのって、渡り人だけなんですか?」
ただの単純な興味から聞いてみたら、団長は若干こわばった顔で振り向いた。
「いや、そういう職業の女性もいるが」
「なんで早口なんですか」
「いや」
「ちゃんと教えてくださいよ」
ああ駄目だ。
いつの間にか私は、彼から威厳や威圧感といったものを感じ取れなくなってしまっている。
いつか無礼を働いてしまいそうだ。
そんなことを黙って考えていた私を見て、怒らせたと勘違いしたのか、
「すまない。こういうことは、きちんと教えないとな」
こほん、と咳払いをする団長。
続きを待つ私。
足を止めて、団長が教えてくれた。
「女性が髪を下ろすのは、浴場にいる時か、寝る時。
つまり、男性と2人きりの時に髪を下ろすのは・・・。
・・・身体を預けても構わない、という意思表示だ」
びしり、と自分の顔が音を立てて固まった気がした。
「そう、なんですか」
かろうじて言葉を発する。
団長の顔が、苦虫を噛み潰したように歪む。
「あぁ。まぁ、今はいいとして。孤児院に入る前に、髪をどうにかしてくれ。
記録では、君のように無防備に髪を下ろす渡り人がたくさんいたようだ。
文化の違いなのだろうな。
ほとんどの場合は、周りが注意して終わり、だったようだが・・・。
中にはその、髪を下ろした状態で渡ってきて、さまよっている所を運悪く・・・。
保護された時には、身体も精神もボロボロになっていたそうだ」
返事が出来なかった。
自分がどれだけ幸運なのかを、実感した瞬間でもあった。
そして同時にその悲劇の場面を想像してしまって、身震いする。
髪下ろして歩くということは、もはや痴女に近いものがあるのか。
「すまない。怖がらせるつもりはなかった。
ただその、痛めつけられてしまった女性も、最終的には後宮に迎えられたそうだ。
幸せだったのか、というところは本人にしか分からないが・・・」
最後は良い終わり方だったんだろう、と結論づけて、考えるのをやめた。
そうでなければ、今夜は夢見が悪くなるだろう。
「わかりました、髪はきちんと結い上げておきます」
「それがいい。
今回は、私が一緒だったから良かったが。
そこらの男だったら、女だと分かった時点で理性がぶち切れることもある」
大体、男が混浴してきた時点ですぐ逃げるべきだっただろう、と最後の方はお説教された。
自分は大丈夫だと思う気持ちがスキを作るのだ、とも。
「そ、そうですよね・・・・」
やはり、私の危機管理は甘かったらしい。
もといた世界、特に治安のいい国に住んでいたせいもある。
分かっていたけれど、2年暮らしたくらいじゃダメなんだな、と身に染みてしまった。
夜風が、下ろした髪を揺らす。
団長のお言葉はまだ続く。
「明日からは、女ものの服を着て、髪を結い上げるんだな」
「はい。気をつけます。ほんとに」
団長のお言葉はなお続く。
「くれぐれも、軽はずみな行動は慎むように」
「はい。ほんとに気をつけます」
口をとがらせる。
「分かればいい。君も、」
「ミナです」
「え?」
怪訝な顔。
しまった、思わず口を挟んでしまった。
団長がぽかん、としている。
「私の名前。ミナといいます」
聞き取れなかったのか、またしても眉間に力が入ったのが分かる。
「名前?」
「そう。
マツダは姓です。名前は、ミナ。そっちで呼んでもらえますか?」
団長の目を見て言った。
私が女性として自己紹介をしたのは、本当に久しぶり。
それから、また街道を歩いて孤児院へと戻った。
歩きながら、言われたとおりに簡単に髪をまとめたけど、その間、団長はずぅっと私の名前を発音してた。
そんなに発音しにくいだろうか。
「ニナ」
「ニイナ」
「ニーナ」
「メイナ」
なんだか連呼していたけれど、ほとんど耳を貸さずにひたすら歩いた。
彼は彼で、そんな私の反応も全く気にするふうもなく、やはりひたすら名前を繰り返す。
最後の方は全く身に覚えのない名前になってしまっていたけれど、そこも無視だ。
なんだか、意地でも言えるようになってやろう、という姿が少し可愛かったな。
結局孤児院にたどり着くまでに、言えるようにはならなかったけれど・・・あの様子でこだわり続けるのを想像すると、今日ちゃんと寝てくれるのか心配だ。
院長は、休養をとって欲しいって言っていたけれど・・・。
そんなことを考えつつ彼を盗み見るけれど、口の中で名前を転がしている様子しか見ることが出来なかった。
仕方なしに、おやすみなさい、とだけ言葉を交わして別れることにしたのだった。
私は目の前で私を見下ろす瞳を見つめ返しながら、考えを巡らせる。
この人は蒼の騎士団の団長。国の治安を守るための組織。
渡り人、という単語が一般常識として浸透しているくらいだ、エイリアンや珍獣扱いはされないと思うけれど・・・。
歴史の中で、文明の発達した世界から渡ってきた人間が、皆そろって善人だったなんて有り得ないことだと思う。
渡り人である私が思うのだから、きっと目の前に立つ彼の瞳が刃のように研ぎ澄まされているのも当然といえば当然なのだろう。
団長の顔を見るのが怖いと感じてしまったら、冷たいものが、背中を伝った。
「あの・・・?」
「あぁ、すまない。唐突すぎた・・・。
ただ、少し気になっただけだ」
乾いた声で問えば、すぐに言葉がかえってきた。
仰ぎ見てみれば、思ったよりも穏やかな表情の団長が私を見ていた。
その表情を見て、ああそうか、と思い至る。
私が危険視されていたら、とっくに院長が手を打っているはずなのだ。
あそこは子どもの暮らす場所なのだから・・・。
追い詰められた気持ちが、ゆっくりほどけていく感覚に、私は詰めていた息を吐き出した。
「・・・違うのか?」
深い緑の瞳が、黒髪の私を写す。
「どうして、そう思ったんですか・・・?」
「まず、黒髪と黒い瞳、見た目と実年齢の差があること。
以前機会があって、記録に目を通したのを思い出した。
他の色を持つ渡り人に比べて、黒髪に黒い瞳の渡り人は、総じて幼く見えるらしい」
「記録、が、あるんですか・・・?」
私の声は、ちゃんと出ているだろうか。
言葉が喉につかえて、上手く話せないのだ。
「あぁ、王都の図書館に。といっても、閲覧資格が厳しい資料ではあるが・・・。
まずは、男装に対して全く抵抗がないことか。
それから髪を下ろして男の前に立っても顔色一つ変えずにいること・・・。
まあ、全ての記録を覚えてはいないからな・・・」
言葉を並べた団長は「また間違っていたら申し訳ないが」と付け加えた。
私は、そっと息をついた。
「いえ、合ってます。
私は2年前に、もといた世界からこちらへ渡ってきました」
口にすると、少し胸が軋んだ。
もう、平気だと思っていただけに自分に驚いてしまう。
あちらで暮らした時間の方が、圧倒的に私の人生を占めているのだから当然か。
団長は無言で先を促している。
「あちらでは、保護者が働いている間、子どもを預かる施設で働いていました。
働いて2年目の、雨の多い季節のことでした。
施設の中にある、渡り廊下を小走りに・・・気づいたら、孤児院のベッドの上でした」
だいぶ省いた説明だったけれど、団長は軽く相槌を打ちながら聞いていた。
「そうか。
突然もといた世界から切り離されて、身の引き裂かれる思いをしたことだろうな」
気遣わしげな声色。
この人は、こんなに優しい表情も出来たのかなんて、失礼な感想を抱いてしまった。
そして、久しぶりにこの話をしたら、なんだか気が滅入ってしまった私は、ゆっくりと頭を振って口を開く。
「そりゃあ、当初は。でも、泣き暮らす期間はもう終わりましたから」
「・・・そうか」
月明かりが、静かに私達を照らす。
一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
言葉が途切れて、どちらからともなく歩き出した。
「あの、図書館にある資料は、私でも閲覧できるんでしょうか?」
ふと思いついて、尋ねる。
もうとっくに諦めていたけれど、もしかして、渡り人が帰還した前例がないか調べられるかも知れない。長い歴史の中には、誰か1人くらい・・・と思ってしまうのは、馬鹿げているだろうか。
これが馬鹿馬鹿しい望みだと鼻で笑えるくらいには、私も分かってはいるのだけれど。
団長は私の問いに、しばらく考えた後、なんとも歯切れの悪い言い方をした。
「そうさせてやりたい気持ちはあるんだが、今のままでは不可能だ。
いや、だが・・・・君が王都で仕事をすれば、可能になる、かも知れない」
何か考えながら、思いついたことを纏めながら話しているのだろうか。
いやに歯切れの悪い言い方をする彼に、思わず尋ねていた。
「それは、どういうことです?」
「いや、まだなんとも言えないが・・・・。
王宮内で、子守が必要な方がおられる。その方のもとで働けば、可能かも知れない。
もちろん君の素性を全て知らせる必要があるし、院長の推薦がなくてはいけない。
あぁ、あとは女性の格好をしなくては」
団長は、半分自分に話しているかのように、いくぶんか早口で言い切った。
「なるほどー・・・。
でも、私が王都で働くなんて、なんだか現実的ではないような気もしますよ?」
なんたって渡り人なのだ。
王宮に、どこの馬の骨とも知れない人間を雇うのは、国家的にどうなのか?
・・・私でもわかる。
貴族の監視と王宮の安全管理をする【紅の騎士団】、王族の警護と王国所有の物を管理する【白の騎士団】が黙っていないと思う。
思いつきの話が、しかも王宮関連の話が、そんなに簡単に実現するわけがない。
私は団長の話を片耳で聞いていた。
「いや、身分的なものなら心配ない。
私が後見になるし、院長も推薦状を用意するだろう」
・・・思いつきの話が大きくなってきてしまったけど、大丈夫なの・・・?
歩きながらも、不安で足が重くなってきた。
突然新しい世界が目の前に開けても、もうそこに飛び込むだけの思い切りは持てない。
冒険や挑戦は、私には遠い話だ。
「要するに、まずは君の気持ち次第だ」
「えっ」
降って沸いた就職話に、思わず声が出る。
急に私の気持ちについて言及されてしまって、現実味が迫ってくるような気がした。
「いや、あの、急すぎてちょっと頭がついていけないっていうか、
私、こっちに来て自分の身の振り方を考える余裕もなかったし・・・」
自分でもうろたえているのが分かる。
それはそれは、滑稽なのだろう。
団長が若干吹き出して言った。
「いや、いい。
確認してもいない話をしてしまって申し訳ないが・・・」
私はブンブンと首を振る。
「とんでもない!
ここまで気にかけてもらえたら、それだけで有り難いですよ」
その一言に、団長は相槌をうった。
遠くに、孤児院が見えてきた。
街道には、ところどころに明かりが埋められていて、その優しい明かりはイルミネーションのようで、私はとても気に入っている。
「あぁ、そういえば」
ふと気になって、聞いてみた。
「髪を下ろすのに抵抗がないのって、渡り人だけなんですか?」
ただの単純な興味から聞いてみたら、団長は若干こわばった顔で振り向いた。
「いや、そういう職業の女性もいるが」
「なんで早口なんですか」
「いや」
「ちゃんと教えてくださいよ」
ああ駄目だ。
いつの間にか私は、彼から威厳や威圧感といったものを感じ取れなくなってしまっている。
いつか無礼を働いてしまいそうだ。
そんなことを黙って考えていた私を見て、怒らせたと勘違いしたのか、
「すまない。こういうことは、きちんと教えないとな」
こほん、と咳払いをする団長。
続きを待つ私。
足を止めて、団長が教えてくれた。
「女性が髪を下ろすのは、浴場にいる時か、寝る時。
つまり、男性と2人きりの時に髪を下ろすのは・・・。
・・・身体を預けても構わない、という意思表示だ」
びしり、と自分の顔が音を立てて固まった気がした。
「そう、なんですか」
かろうじて言葉を発する。
団長の顔が、苦虫を噛み潰したように歪む。
「あぁ。まぁ、今はいいとして。孤児院に入る前に、髪をどうにかしてくれ。
記録では、君のように無防備に髪を下ろす渡り人がたくさんいたようだ。
文化の違いなのだろうな。
ほとんどの場合は、周りが注意して終わり、だったようだが・・・。
中にはその、髪を下ろした状態で渡ってきて、さまよっている所を運悪く・・・。
保護された時には、身体も精神もボロボロになっていたそうだ」
返事が出来なかった。
自分がどれだけ幸運なのかを、実感した瞬間でもあった。
そして同時にその悲劇の場面を想像してしまって、身震いする。
髪下ろして歩くということは、もはや痴女に近いものがあるのか。
「すまない。怖がらせるつもりはなかった。
ただその、痛めつけられてしまった女性も、最終的には後宮に迎えられたそうだ。
幸せだったのか、というところは本人にしか分からないが・・・」
最後は良い終わり方だったんだろう、と結論づけて、考えるのをやめた。
そうでなければ、今夜は夢見が悪くなるだろう。
「わかりました、髪はきちんと結い上げておきます」
「それがいい。
今回は、私が一緒だったから良かったが。
そこらの男だったら、女だと分かった時点で理性がぶち切れることもある」
大体、男が混浴してきた時点ですぐ逃げるべきだっただろう、と最後の方はお説教された。
自分は大丈夫だと思う気持ちがスキを作るのだ、とも。
「そ、そうですよね・・・・」
やはり、私の危機管理は甘かったらしい。
もといた世界、特に治安のいい国に住んでいたせいもある。
分かっていたけれど、2年暮らしたくらいじゃダメなんだな、と身に染みてしまった。
夜風が、下ろした髪を揺らす。
団長のお言葉はまだ続く。
「明日からは、女ものの服を着て、髪を結い上げるんだな」
「はい。気をつけます。ほんとに」
団長のお言葉はなお続く。
「くれぐれも、軽はずみな行動は慎むように」
「はい。ほんとに気をつけます」
口をとがらせる。
「分かればいい。君も、」
「ミナです」
「え?」
怪訝な顔。
しまった、思わず口を挟んでしまった。
団長がぽかん、としている。
「私の名前。ミナといいます」
聞き取れなかったのか、またしても眉間に力が入ったのが分かる。
「名前?」
「そう。
マツダは姓です。名前は、ミナ。そっちで呼んでもらえますか?」
団長の目を見て言った。
私が女性として自己紹介をしたのは、本当に久しぶり。
それから、また街道を歩いて孤児院へと戻った。
歩きながら、言われたとおりに簡単に髪をまとめたけど、その間、団長はずぅっと私の名前を発音してた。
そんなに発音しにくいだろうか。
「ニナ」
「ニイナ」
「ニーナ」
「メイナ」
なんだか連呼していたけれど、ほとんど耳を貸さずにひたすら歩いた。
彼は彼で、そんな私の反応も全く気にするふうもなく、やはりひたすら名前を繰り返す。
最後の方は全く身に覚えのない名前になってしまっていたけれど、そこも無視だ。
なんだか、意地でも言えるようになってやろう、という姿が少し可愛かったな。
結局孤児院にたどり着くまでに、言えるようにはならなかったけれど・・・あの様子でこだわり続けるのを想像すると、今日ちゃんと寝てくれるのか心配だ。
院長は、休養をとって欲しいって言っていたけれど・・・。
そんなことを考えつつ彼を盗み見るけれど、口の中で名前を転がしている様子しか見ることが出来なかった。
仕方なしに、おやすみなさい、とだけ言葉を交わして別れることにしたのだった。