【完】『賀茂の流れに』
10 帰郷
陣内一誠と實平あさ美の、京都と東京という遠距離の交際はこうやって始まったのであったが、
──實平あさ美に男の影がある。
というのが雑誌に載ると、たちまち陣内一誠の立場は厳しいものになった。
とりわけグラビアの仕事は激減し、正面橋にはレポーターが貼り付くようになって、
「あれでは家に帰れん」
と一誠は、エマにこぼしたほどである。
何しろあさ美のプロデューサーは内閣府にも出入りをするほどの人物で、
「先生」
とあさ美も呼んでいる。
一方で。
当の實平あさ美はというとアイドルのユニットを脱退し、都内のマンションを引き払って鶴見の慶のアパートに引っ越してきた。
「いとこん家じゃけ、えぇじゃろーが」
あさ美も身内がいると広島弁に戻る。
慶にすればとばっちりで、
「何か手はないやろか」
さすがに萌々子にぼやいたらしく、
「だったら、七里ヶ浜のうちの実家に訊いてみる?」
ということになり、
──窮鳥ふところに入らば、これを撃たずってものさ。
という萌々子の祖母の紺野操のはからいで、あさ美を実家の離れで預かることになったのであった。
「すいません」
あさ美は頭を下げた。
「いいんだよ、どうせ離れも空いてたし、これが江戸前の羽織芸者の心意気ってものさ」
切れのいい口跡で言った。
そういえば操は芸妓の頃も姉御肌で知られていたようであった。
熱愛騒動はエマと翔一郎の周囲にも影響を落とし始めていた。
「ぜひグラビアの仕事を」
というのである。
風景写真の世界では、今や京都の饗庭は知る人ぞ知る存在で、
──ぜひ写真集を出して欲しい。
という要望もちらほら出始めている。
しかし。
翔一郎はグラビアには乗り気ではない。
例の成人雑誌の一件以来、極力グラビアアイドルは撮らない…というスタンスを貫いてきたのである。
「そんな変に、意地なんか張らなくたって」
撮ればいいじゃない、とはエマの言い分であった。
「そんなんいうたかてやなぁ、機材かて人間撮影すんのと、花を撮影すんのとではちゃうのやで」
簡単に言わんときや、と珍しく刺々しい返事をした。
「でもさぁ、もらえるお金はグラビアの方がいいんだしさぁ…」
ギャラは明らかに高い。
「お金は確かに率がえぇんやが、何か忸怩たるもんがあってやなぁ…」
少し口を利かなくなるほど喧嘩をすることもある。
一誠とあさ美の話題はあちこちに波紋を立てたまま、年は改まった。
新年。
彦根へ帰省する、と翔一郎が独りで東海道線に乗って京都駅を出たのは、二日の朝であった。
新快速の列車で五十分足らずである。
馬鹿みたいに遠い訳ではない。
彦根駅につくと母校のグランドのそばの、彦根城が見える秘密のポイントへ最初に向かった。
十八年を過ごした彦根の町は、前と何も変わっていなかった。
実家には、帰らない。
(今さら帰ったところで)
どうにかなる訳でもない…というのが偽らざるところであったらしい。
腰を下ろしたまま、しばし行く先を決めかねていたようであったが、何か思い付いた顔をすると、
「…せや」
と向かったのは、松原町の水泳場であった。
遊歩道に沿って白砂と松林が続き、穏やかな冬の湖面はどこまでもトルコ石のような深みのある青が広がり、遠く多景島や竹生島が浮かんでいる。
さすがに正月なので、誰もいない。
ぼんやりと砂浜に膝を抱え座ったまま、翔一郎はなにかを考えていたようであった。
が、
「…原点、か」
日が傾いた頃、そう呟くとゆっくりと彦根駅までの道を、歩いて戻ったのであった。
西陣へ帰ったのは日没後である。
「あ、おかえりー」
いつものようにエマはキッチンにいた。
翔一郎は黙っている。
不意に。
エマを翔一郎は後から抱き締めた。
「…どうしたの?」
しばらく翔一郎は黙っていたが、
「おみやげ」
といって差し出したのは、何やら細長い形をした箱である。
「開けていい?」
「えぇよ」
中におさめられていたのは、瑠璃色をした可憐なスワロフスキーの蝶のペンダントであった。
「わ、可愛い」
「…エマにはいつも苦労ばっかりかけとるから」
「気にしなくていいって」
「つけてみ」
エマはうなじに手を回し、ペンダントを胸元に提げてみた。
「…似合う」
「ん?」
洗面台の鏡に向かうと、
「翔くん、ありがと」
でも高いんじゃない?──エマは少し心配げな顔になった。
「今のおれには、このぐらいしか買えんけど」
エマが気に入ってくれて良かった、と翔一郎は安堵の表情を浮かべた。
「ね、久しぶりに彦根帰ったんだよね?」
「お城も、琵琶湖も、何も昔のまんま変わってへんかった」
「そっかぁ」
今度つれてって、とエマは甘えた声で言った。
「えぇよ」
ソファで二人は肩を寄せあった。
仲直りをした瞬間である、といってよいであろう。
仕事始め。
翔一郎はグラビアの撮影の件で何か思い付いたらしく、
「今度、打ち合わせに愛ちゃんを同席させようと思うんやが」
といった。
「愛を?」
「えらい前やけどあの子、カメラに興味あるって話してたやん」
現場見せたろって思ってな──と翔一郎はいう。
「でもまだ高校生だし」
「それならまだエマも高校生やろ」
社会を早くから知るのは、とにもかくにもえぇことや…という結論で、打ち合わせに香月愛を同席させることが決まった。
数日後。
少年誌の編集者と翔一郎の打ち合わせの席に、愛がいる。
「まだ新人で見習いに毛の生えたぐらいなんやが」
といい、翔一郎の助手として参加させる旨を明かしたのである。
愛は驚きのあまり絶句してしまい。
「はぁ…」
と、まるで子牛でも鳴いているような奇妙な声をあげた。
編集者は一瞬ひるんだが、
「まあそう饗庭先生がおっしゃるのなら…」
と、半分しぶしぶながらも編集者にも承諾させてしまったのであった。
話を聞いたエマは唖然とした。
(素人みたいな愛に撮らすなんて…普通じゃない)
しかも撮影も三月、とすでにブッキングされてある。
だが。
当の翔一郎は平然たるもので、
「こう決まったから、次は下準備かたがた腕試しせなあかん」
と、二月にある翔一郎の初の個展に愛の写真を出展させるプランを、エマにだけ打ち明けた。
エマはハッとした。
(早く愛を写真家としてデビューさせるつもりなんだ…)
翔一郎の読みは、
──女子高生写真家としてデビューさせれば、最初は珍しさから仕事が来る。そこで実地訓練として腕前をみがけば、何かと先の方途が立つ。
という、実に先を見越した計画であった。
「そのために使い方や撮影の基礎だけは教えてある」
夫の緻密な一面に、
(何も考えてなさそうで、案外いろいろ)
考えてるのかも知れない、とエマは、意外性を感じた。
──實平あさ美に男の影がある。
というのが雑誌に載ると、たちまち陣内一誠の立場は厳しいものになった。
とりわけグラビアの仕事は激減し、正面橋にはレポーターが貼り付くようになって、
「あれでは家に帰れん」
と一誠は、エマにこぼしたほどである。
何しろあさ美のプロデューサーは内閣府にも出入りをするほどの人物で、
「先生」
とあさ美も呼んでいる。
一方で。
当の實平あさ美はというとアイドルのユニットを脱退し、都内のマンションを引き払って鶴見の慶のアパートに引っ越してきた。
「いとこん家じゃけ、えぇじゃろーが」
あさ美も身内がいると広島弁に戻る。
慶にすればとばっちりで、
「何か手はないやろか」
さすがに萌々子にぼやいたらしく、
「だったら、七里ヶ浜のうちの実家に訊いてみる?」
ということになり、
──窮鳥ふところに入らば、これを撃たずってものさ。
という萌々子の祖母の紺野操のはからいで、あさ美を実家の離れで預かることになったのであった。
「すいません」
あさ美は頭を下げた。
「いいんだよ、どうせ離れも空いてたし、これが江戸前の羽織芸者の心意気ってものさ」
切れのいい口跡で言った。
そういえば操は芸妓の頃も姉御肌で知られていたようであった。
熱愛騒動はエマと翔一郎の周囲にも影響を落とし始めていた。
「ぜひグラビアの仕事を」
というのである。
風景写真の世界では、今や京都の饗庭は知る人ぞ知る存在で、
──ぜひ写真集を出して欲しい。
という要望もちらほら出始めている。
しかし。
翔一郎はグラビアには乗り気ではない。
例の成人雑誌の一件以来、極力グラビアアイドルは撮らない…というスタンスを貫いてきたのである。
「そんな変に、意地なんか張らなくたって」
撮ればいいじゃない、とはエマの言い分であった。
「そんなんいうたかてやなぁ、機材かて人間撮影すんのと、花を撮影すんのとではちゃうのやで」
簡単に言わんときや、と珍しく刺々しい返事をした。
「でもさぁ、もらえるお金はグラビアの方がいいんだしさぁ…」
ギャラは明らかに高い。
「お金は確かに率がえぇんやが、何か忸怩たるもんがあってやなぁ…」
少し口を利かなくなるほど喧嘩をすることもある。
一誠とあさ美の話題はあちこちに波紋を立てたまま、年は改まった。
新年。
彦根へ帰省する、と翔一郎が独りで東海道線に乗って京都駅を出たのは、二日の朝であった。
新快速の列車で五十分足らずである。
馬鹿みたいに遠い訳ではない。
彦根駅につくと母校のグランドのそばの、彦根城が見える秘密のポイントへ最初に向かった。
十八年を過ごした彦根の町は、前と何も変わっていなかった。
実家には、帰らない。
(今さら帰ったところで)
どうにかなる訳でもない…というのが偽らざるところであったらしい。
腰を下ろしたまま、しばし行く先を決めかねていたようであったが、何か思い付いた顔をすると、
「…せや」
と向かったのは、松原町の水泳場であった。
遊歩道に沿って白砂と松林が続き、穏やかな冬の湖面はどこまでもトルコ石のような深みのある青が広がり、遠く多景島や竹生島が浮かんでいる。
さすがに正月なので、誰もいない。
ぼんやりと砂浜に膝を抱え座ったまま、翔一郎はなにかを考えていたようであった。
が、
「…原点、か」
日が傾いた頃、そう呟くとゆっくりと彦根駅までの道を、歩いて戻ったのであった。
西陣へ帰ったのは日没後である。
「あ、おかえりー」
いつものようにエマはキッチンにいた。
翔一郎は黙っている。
不意に。
エマを翔一郎は後から抱き締めた。
「…どうしたの?」
しばらく翔一郎は黙っていたが、
「おみやげ」
といって差し出したのは、何やら細長い形をした箱である。
「開けていい?」
「えぇよ」
中におさめられていたのは、瑠璃色をした可憐なスワロフスキーの蝶のペンダントであった。
「わ、可愛い」
「…エマにはいつも苦労ばっかりかけとるから」
「気にしなくていいって」
「つけてみ」
エマはうなじに手を回し、ペンダントを胸元に提げてみた。
「…似合う」
「ん?」
洗面台の鏡に向かうと、
「翔くん、ありがと」
でも高いんじゃない?──エマは少し心配げな顔になった。
「今のおれには、このぐらいしか買えんけど」
エマが気に入ってくれて良かった、と翔一郎は安堵の表情を浮かべた。
「ね、久しぶりに彦根帰ったんだよね?」
「お城も、琵琶湖も、何も昔のまんま変わってへんかった」
「そっかぁ」
今度つれてって、とエマは甘えた声で言った。
「えぇよ」
ソファで二人は肩を寄せあった。
仲直りをした瞬間である、といってよいであろう。
仕事始め。
翔一郎はグラビアの撮影の件で何か思い付いたらしく、
「今度、打ち合わせに愛ちゃんを同席させようと思うんやが」
といった。
「愛を?」
「えらい前やけどあの子、カメラに興味あるって話してたやん」
現場見せたろって思ってな──と翔一郎はいう。
「でもまだ高校生だし」
「それならまだエマも高校生やろ」
社会を早くから知るのは、とにもかくにもえぇことや…という結論で、打ち合わせに香月愛を同席させることが決まった。
数日後。
少年誌の編集者と翔一郎の打ち合わせの席に、愛がいる。
「まだ新人で見習いに毛の生えたぐらいなんやが」
といい、翔一郎の助手として参加させる旨を明かしたのである。
愛は驚きのあまり絶句してしまい。
「はぁ…」
と、まるで子牛でも鳴いているような奇妙な声をあげた。
編集者は一瞬ひるんだが、
「まあそう饗庭先生がおっしゃるのなら…」
と、半分しぶしぶながらも編集者にも承諾させてしまったのであった。
話を聞いたエマは唖然とした。
(素人みたいな愛に撮らすなんて…普通じゃない)
しかも撮影も三月、とすでにブッキングされてある。
だが。
当の翔一郎は平然たるもので、
「こう決まったから、次は下準備かたがた腕試しせなあかん」
と、二月にある翔一郎の初の個展に愛の写真を出展させるプランを、エマにだけ打ち明けた。
エマはハッとした。
(早く愛を写真家としてデビューさせるつもりなんだ…)
翔一郎の読みは、
──女子高生写真家としてデビューさせれば、最初は珍しさから仕事が来る。そこで実地訓練として腕前をみがけば、何かと先の方途が立つ。
という、実に先を見越した計画であった。
「そのために使い方や撮影の基礎だけは教えてある」
夫の緻密な一面に、
(何も考えてなさそうで、案外いろいろ)
考えてるのかも知れない、とエマは、意外性を感じた。