【完】『賀茂の流れに』

2 初天神


翌日…。

何とも罪悪感に包まれた朝である。

(要は写真を餌に)

ナンパしてお持ち帰りしたようなもんやからなあ…という、大事なカメラを穢(けが)したような、そんな居たたまれない気がしたらしい。

が。

当のエマは一糸まとわぬ姿のまま、小さな寝息を立てて毛布にくるまって眠っている。

時計は朝の九時を過ぎていた。

(今日って、大阪でグラビアの打ち合わせやないか…!)

急いでベッドを抜け出すと翔一郎は身仕度を始めた。

(しゃーないから朝食はこの際、行き掛けにコンビニかキオスクで買うたれ)

ガサガサと服を着ていると、

「…あ、おはよ」

エマが起きた。

「起こしてごめんな。これから仕事やねん」

出るときはガスメーターに鍵隠しといてや、といい、

「別に盗られるモンなんもないけど、あと頼むで」

「うん」

「勉強だけはちゃんとせぇよ」

「ありがと」

翔一郎は慌ただしく網代戸を閉めた。

まだエマは眠そうに、目をこすっている。



ひとまず大阪へは無事に間に合った。

しかし。

学生の頃から京都で十年以上も暮らしている翔一郎には、大阪の街は忙しないばかりで、

(たかが天王山越しただけで)

こんなに流れる時間が違うものかと驚くことが、しばしばである。

梅田の桜橋の交差点では、信号が変わるまでカウントダウンする電光の掲示板があって、それでさえフライングして怒鳴られるサラリーマンを見た。

西陣では考えられない状況でもある。

(だいいち西陣やったら)

例えば上七軒の界隈のように、信号もない辻すらあるのである。

そういうとき、

(大阪の芸大選んでたらセカセカしてたんやろな)

と翔一郎は思う部分が時折あった。



翔一郎が京都へ戻ったのは夕方である。

(さすがにエマちゃんは)

もうおらんやろ、と思いながら、京都駅の駐輪場からリトルカブに跨がって西陣まで帰ってきた。

だが。

例のドイツ人の留学生から、

「彼女、お出かけしてたよ」

と片言で聞かされたとき、翔一郎は一瞬不安になった。

いくら女の子でも、

(彼女にすれば、たかがいっぺんセックスしただけの関係やもんな)

貴重品は手持ちの鞄にあるから、盗られて困る物はほとんどないが、

(我ながら無用心やな)

少し顔が曇った。

いつもの急階段を上がった。

網代戸を開けた。

「あ、お帰り」

なぜか、エマがいる。

しかも昨日とは違う制服姿で、

「今夜はごちそうだよ」

と、なぜかテーブルには寿司までも並んでいるのである。

「…どういうこっちゃ?」

「あのさ…知ってるおじさんが、おごってくれたんだ」

言い訳めいた口ぶりで、モジモジしながらエマはいった。

「まさか…援交ちゃうやろな」

「は?」

途端にエマの表情が急に険しくなって、

「…だってこうやって制服着たら、勝手にお金出してくれるオヤジがいるんだよ? 男なんかみんなそんなもんじゃねーのかよ!」

エマの逆鱗に触れたらしい。

「…そんな」

翔一郎は泣きそうな顔をして深いため息をついた。

「きっと翔くんは、それがイヤなんだよね。…じゃあバイバイ」

エマは飛び出しかけた。

「…待てや!」

行くとこあるんか、と翔一郎はいった。

「テメーのねぐらぐらい、テメーで何とかする!」

振りほどこうとした。

翔一郎は腕を引っ張ってエマをふんわりと抱き止めてから、

「しばらく、ここにおっとけ」

エマはキョトンとした顔になった。

「エマちゃんは、ここにおった方がえぇ気がする」

憑物が落ちたようにエマはペタンと座り込んだ。

「…ありがと」

涙ぐんでいる。

エマは翔一郎の首に腕を回して、昨日とは違う、軽く柔らかいキスをした。



なぜ突飛なことを言ったのか自分でも翔一郎は分からないが、エマとの同居──はた目には同棲に見えたらしいが──が始まってから、翔一郎はエマが写真を誉めてくれることもあり、

(もう少し頑張ってみたろかな)

と思うことがあった。

クリスマスが近づいた頃、春に一誠の三度目の個展が開かれることが決まって、翔一郎のもとへも、

「一枚出してみる気はないか」

という誘いが来た。

翔一郎はどうしようか迷いがあったらしく、

「エマがおれの立場やったら、どうする?」

とエマに相談を持ちかけてみた。

訊かれたエマはしばし考えていたが、

「うまくはいえないけど…あたし的には翔くんの写真、何気に好きだよ」

何かね、温かい感じがする──とエマは答えた。

「何の写真を撮るのか分からないけど、出してみたらいいじゃん」

「…うん。ありがとな」

少し伏し目がちに翔一郎はいった。

次の日。

その日から翔一郎は毎日、小さなノートに脳裡で浮かんだ構図のイメージをつけ始めた。



数日後。

キッチンで豚汁を作っていたエマのもとへ、翔一郎が転がるように、飛んで帰ってきた。

「あ、お帰り」

「エマに頼みがある」

「なーに?」

エマは振り向いた。

「実は、写真のモデルをお願いしたいんやけど…」

「もしかしてハダカ?」

エマが冗談めかすと、

「アホぬかせ、誰が好んでハダカ撮んのや。普通のモデルや」

いつもと違う口調で返してきた。

「…普通?」

エマは急に可笑しくなったのか、

「だってさ、あたしってフラフラあちこち泊まり歩いたり、ひどいときには援交したり…って、そんな女だよ?」

どこが普通?…という言葉にかぶさるように翔一郎はエマの肩を鷲掴みし、

「構図はあんねん。これ、おれにとってはチャンスやし、必死なんや!」

珍しく気迫のある様子の翔一郎にエマは少し圧され気味になって、

「うん…わかった、わかったって」

「ありがと」

エマを翔一郎は、いつになくきつく抱き締めた。



年があらたまった。

その頃ともなるとエマとの関係は、若手の写真家の仲間内で知る人ぞ知る話題となっていて、

──えらい変わった女つかまされたな。

と嫌味をたれるのもあったが、

「いや、若い彼女やと毎日ピチピチですから、エッチもヤり甲斐があります」

と切り返しては、相手に絶句させるぐらいの度胸も、翔一郎は変についてきていた。

彦根には、帰っていない。

「半分勘当みたいなもんやからなあ」

翔一郎はジョークまじりにいった。

あとからエマが話を繋げると、もともと両親が公務員で、息子も役人にしようとしていたアテが外れ、八つ当たり半分で親と義絶に近い状態となったのだ…との話であった。

「売り言葉に買い言葉やってんやね」

妙にサバサバした面が、翔一郎はあるらしい。



ところで。

エマをモデルに撮影するという話は、なかなか進まないでいた。

イメージ通りの背景が見つからないのである。

立命館の裏手の等持院や、あるいは柳馬場二条のハリストス正教会などあれこれいろいろCGで図出しをしてはみるのだが、

(いまいち決め手に欠けよるなあ)

というオチが関の山で、翔一郎も打つ手がないまま、一週間ばかりが過ぎた。



数日後。

翔一郎の部屋に据え付けてあった電話が鳴った。

「はい、饗庭でーす」

エマが取った。

「おいおい、仕事やったらどうすんねん」

苦笑いしながら慌ててエマから受話器を取ると、

「はい──お、實平! えらい久しぶりやな」

電話口の声の主は十年ほど前から、翔一郎と付き合いのあった實平慶である。

どうやら地元の大阪に帰省したらしいのだが、

「せっかくやし京都に寄り道しとく」

といった内容のようであった。

電話を切るとエマが、

「友達なんだ?」

「ま、予備校の頃からやけどな」

といった。

ちなみにそこの予備校には夏合宿があって、翔一郎と慶はたまたま席が隣同士になったのが知り合った切っ掛けである。

「じゃ、親友?」

「親友っていうか…ま、腐れ縁みたいなもんやな」

「で、いつ来るの?」

「今度の金曜日に、彼女と一緒に来るって言うとったで」

エマは少しだけ興味のありそうな顔つきをした。

金曜日になった。

「今日は地下鉄の移動にしな、さすがにあかんやろ」

というと、エマと翔一郎は今出川浄福寺からバスで烏丸今出川まで出、地下鉄で京都駅まで下がった。

ちなみに、

「上がる、下がる」

というのは独特の言い回しで、北へは上がる、南へは下がると呼ぶ。

さて。

週末の京都駅は朝の混雑が一段落した時間で、地下街から切符売場へ出ると二人は待つことにした。

少し、待った。

背の高い慶の姿を翔一郎は、容易に見つけ出すことが出来た。

「おぅ」

手を挙げて応答する、慶の癖である。

隣には慶と手を繋いで、何やら西洋の人形のような服装をした、少し小柄な女の子がカートをコロコロ曳いていた。

「何年ぶりやろな」

「確かお前の餞別会のとき以来やから、七年ぐらいやろか」

翔一郎は答えた。

「その隣のフランス人形みたいな女の子は?」

「こっちはね、紺野萌々子」

彼女やねん、と慶は隠さず答えた。

「あ、どうも紺野です」

萌々子がペコッっとお辞儀をした。

「こっちは饗庭翔一郎。昔からの仲間や」

隣の彼女は?──と慶は訊いた。

「あたし? 葛城エマ」

「恋人?」

萌々子は訊いてみた。

「まあ、うちの同居人みたいなもんやね」

翔一郎は照れ臭そうな顔をした。

「せっかくの京都やし、大阪出る前に、予約でレンタカー借りてあんねん」

どうやら慶は、みずから運転するつもりであったらしい。

つられるように慶の後ろを三人で、塩小路に向かって歩き出した。



慶の運転で自動車は動き始めた。

「翔くんナビしたら?」

というエマの一言で慶より京都暮らしの長い翔一郎がナビゲーションをする形になって、自然と後ろにはエマと萌々子が座る、という位置関係になった。

後ろの座席では萌々子の洋服にエマの興味は集中したらしく、

「ね、そういう服って京都にもあるの? あたしも着てみたい」

と萌々子を質問攻めにしてゴスロリだのヘッドドレスだの、降りる頃には専門的な用語まで、萌々子からすっかり聞き出していたのである。

いっぽう。

萌々子は萌々子で、前で慶と翔一郎が話している近況を、ちらちらと漏れ聞いていた。

「写真家かあ。独立したんやて?」

「まだ自宅で事務所開いたばっかりやけどな」

「どの辺?」

「西陣の京町家借りたんやけど、夏は暑いわ冬は寒いわで、えらい目に遭うてやなあ」

ところでカメラは、と慶が訊くと、

「今日は持ってへん」

せっかくなんやしうちらも撮れや──という慶の提案で、いったんカメラを取りに西陣に寄ってから、観光することとなった。



出発した四人乗りのレンタカーは、

「早咲きの梅が咲き始めやから」

という翔一郎の案内で、今出川通を御前通で右に折れ北野天満宮へ移動した。

時期がちょうど初天神の前であったらしく、境内のあちこちで露店を建て込む槌の音がする。

「あ、白いの咲いてるよ」

萌々子が咲いている樹を見つけた。

つぼみの固いものもあったが、白梅がちらほら咲いて香りがほのかに風に乗って漂ってきている。

「ほんなら撮るでー」

白梅に包まれて、花の精のような萌々子とエマを撮ったり、指でファインダーを作っては構図を確認したり…と、翔一郎もそこはプロだけにサマになっている。

そこへ。

エマが何か思い付いたような顔をして、翔一郎に駆け寄ってきた。

「萌々子ちゃんのゴスロリが似合いそうな場所って、京都にはないの?」

あるにはある。

例えば赤レンガの同志社の今出川校舎や、新町一条のカトリック教会であったり…。

(したが、どれも撮影は許可が)

前以て要るはずである。

少し考えた。

思い出したらしく、

「意外なところやが、あるにはある」

エマは萌々子を呼びに駆け去っていった。
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