【完】『賀茂の流れに』
5 祇園囃子
渋谷の駅前にあるビジネスホテルの窓からは、わずかだがスクランブルの交差点が見える。
「…なんか、落ち着かへんなあ」
ほとんど関西から出たことのない翔一郎は少し不安げであった。
一方のエマは、
「…そういえば翔くんにまだ話してなかったけど」
京都に来る前、小さい頃あたし東京にいたみたいなんだよね、とつぶやいた。
「亡くなったおばあちゃんが教えてくれた。あんたのパパとママは渋谷で出逢ったんだよって」
で、パパと別れたあとママと一緒に京都に引っ越してきたんだけど、慣れない夜の仕事でお酒で体を壊して脳出血で死別したんだよね──とエマは続けた。
「だから前はあたし、京都の町が嫌いだった。嫌なことばっかりだったし、狭いし古臭いし、言葉も違うから馴染めないしで」
「そっかぁ」
けどね、とエマは振り返った。
「翔くんと出逢って、付き合うようになってから少し変わったかな」
「ホンマ?」
「うん。翔くんはあたしが知らなかった世界を知ってるから、何か毎日が楽しくって」
「ほんならよかった」
二人はしばらく渋谷の夜景を、少し眠くなるまで眺めていた。
パーティーは結論からのべると、あまり好感触ではなかった。
(確かに入選やったけど)
こういうコンクールというのは大抵が、コネか大手の写真事務所のバックアップがあるか、あるいは誰かの二世か三世でないと上位になれない。
「…何や、出来レースかいな」
下手な八百長より蹴ったクソ悪いでコレ──と翔一郎はこぼした。
現実を華やかなパーティーの席で嫌というほど見せ付けられ、翔一郎は不機嫌そのものである。
(これが勉強ってことか)
ようやく発つ前に一誠が指摘していた言葉を理解できたのであった。
が。
何もマイナスばかりではない。
翔一郎には収穫が二つほどあった。
一つは着物が功を奏したのか、海外のメディアから何社かの取材やインタビューを申し込まれたことで、
「キョートのミスター・アイバ」
と、例の羽織袴姿の肖像が配信されたのである。
「古手(ふるて。古着のこと)屋のアンサンブルでも役に立つことあるんやな」
翔一郎は苦笑した。
それと。
もう一つは、エマが意外なことに英語が話せるという事実であった。
最初のアメリカのメディアの取材の対応のときであったが、エマが通訳を買って出てくれたのである。
あとから訊いたが、
「あたしさ、実はハーフなんだ」
エマの緑がかった目の色と、ワイン色のドレスがよく似合う肌の色の白さの理由がようやく翔一郎に解けたのは、このときである。
パーティーのあとは数日間、鶴見にある慶のアパートに厄介になりながら、萌々子の地元の鎌倉で遊んだり、よく慶が食べに行く浜川崎の焼肉屋に寄ったり…と少しだけ旅行らしい日々を過ごした。
東京を発つ日、エマは萌々子から真っ白いゴスロリの洋服をもらった。
「サイズが分からなかったから大変だったんだよ」
と萌々子は苦笑していたが、仲間が増えたようで何か嬉しそうな様子が翔一郎にもすぐわかった。
そうして。
京都へ戻ると、祇園祭の稚児社参の神事がすでに始まっている。
(もう祇園さんか)
祇園祭、とはいうものの、主に八坂神社の祭礼であるから、翔一郎たちのいる西陣では、あまり祭らしい雰囲気にはならない。
それでも。
何万人という観客がこの時期、京都へ集中する。
そんな混雑している一誠の烏丸御池の事務所に翔一郎とエマが中元の素麺を持参したのは、祇園祭の神輿洗の神事の日である。
「饗庭、外国の取材が来たらしいな」
「はい」
あのあとはイタリアやアメリカから仕事の依頼が来て、なかなか一誠に挨拶できずにいたのである。
「…えぇ加減、身ぃ固めたらどうや」
「はぃ…?」
エマと翔一郎は顔を見合わせた。
「当たり前やろ、おまえら世界にはばたかなあかんのやから、中途半端な関係はあかん」
一誠はタバコを吸い始めた。
「エマちゃん、こいつときどき精神的に脆くなりよるから、饗庭のことしっかり頼むで」
「…わかりました」
エマは満面の笑みで応じ、
「頑張らなきゃね」
「…そやな」
強い調子に翔一郎はタジタジになった。
帰路、エマと翔一郎は寄り道した柳馬場二条のハリストス正教会の前で、三脚とタイマーを繰って、並んで写真を撮った。
エマのリクエストで、
「まるで少女漫画やな」
翔一郎が突っ込みを入れるとエマは笑っていた。
二人が籍を入れたのは、宵山の日である。
「保証人なら俺がなったる」
一誠は懇意の町寺の住職と共に書類に署名を入れてくれたのであった。
山鉾巡行が済んだ。
何日かして二人は内々で、河原町三条のイタリアンのレストランの納涼床で結婚記念にというのでランチに出掛けた。
普段はエマも翔一郎も料理をするので、外食らしい外食はしないのだが、
「せっかくだから」
というエマの一言でランチが決まった。
夏場らしく冷やしパスタや新トマトのメニューが並ぶなか、コースにないシャーベットが運ばれてきた。
「すんません、これは…?」
「当店より、ご結婚記念のデザートでございます」
給仕は答えた。
途端にエマがクスクス笑い出した。
「何がおかしいんや?」
翔一郎はキョトンとした。
「…こっそりあたしが頼んどいたんだ」
「ほんまに」
よう驚かすやっちゃで、と翔一郎は鴨川の河原に目をやった。
そういえば。
出逢った日も同じような、雨の上がった日であったことを、翔一郎は思い出していた。
「…なんか、落ち着かへんなあ」
ほとんど関西から出たことのない翔一郎は少し不安げであった。
一方のエマは、
「…そういえば翔くんにまだ話してなかったけど」
京都に来る前、小さい頃あたし東京にいたみたいなんだよね、とつぶやいた。
「亡くなったおばあちゃんが教えてくれた。あんたのパパとママは渋谷で出逢ったんだよって」
で、パパと別れたあとママと一緒に京都に引っ越してきたんだけど、慣れない夜の仕事でお酒で体を壊して脳出血で死別したんだよね──とエマは続けた。
「だから前はあたし、京都の町が嫌いだった。嫌なことばっかりだったし、狭いし古臭いし、言葉も違うから馴染めないしで」
「そっかぁ」
けどね、とエマは振り返った。
「翔くんと出逢って、付き合うようになってから少し変わったかな」
「ホンマ?」
「うん。翔くんはあたしが知らなかった世界を知ってるから、何か毎日が楽しくって」
「ほんならよかった」
二人はしばらく渋谷の夜景を、少し眠くなるまで眺めていた。
パーティーは結論からのべると、あまり好感触ではなかった。
(確かに入選やったけど)
こういうコンクールというのは大抵が、コネか大手の写真事務所のバックアップがあるか、あるいは誰かの二世か三世でないと上位になれない。
「…何や、出来レースかいな」
下手な八百長より蹴ったクソ悪いでコレ──と翔一郎はこぼした。
現実を華やかなパーティーの席で嫌というほど見せ付けられ、翔一郎は不機嫌そのものである。
(これが勉強ってことか)
ようやく発つ前に一誠が指摘していた言葉を理解できたのであった。
が。
何もマイナスばかりではない。
翔一郎には収穫が二つほどあった。
一つは着物が功を奏したのか、海外のメディアから何社かの取材やインタビューを申し込まれたことで、
「キョートのミスター・アイバ」
と、例の羽織袴姿の肖像が配信されたのである。
「古手(ふるて。古着のこと)屋のアンサンブルでも役に立つことあるんやな」
翔一郎は苦笑した。
それと。
もう一つは、エマが意外なことに英語が話せるという事実であった。
最初のアメリカのメディアの取材の対応のときであったが、エマが通訳を買って出てくれたのである。
あとから訊いたが、
「あたしさ、実はハーフなんだ」
エマの緑がかった目の色と、ワイン色のドレスがよく似合う肌の色の白さの理由がようやく翔一郎に解けたのは、このときである。
パーティーのあとは数日間、鶴見にある慶のアパートに厄介になりながら、萌々子の地元の鎌倉で遊んだり、よく慶が食べに行く浜川崎の焼肉屋に寄ったり…と少しだけ旅行らしい日々を過ごした。
東京を発つ日、エマは萌々子から真っ白いゴスロリの洋服をもらった。
「サイズが分からなかったから大変だったんだよ」
と萌々子は苦笑していたが、仲間が増えたようで何か嬉しそうな様子が翔一郎にもすぐわかった。
そうして。
京都へ戻ると、祇園祭の稚児社参の神事がすでに始まっている。
(もう祇園さんか)
祇園祭、とはいうものの、主に八坂神社の祭礼であるから、翔一郎たちのいる西陣では、あまり祭らしい雰囲気にはならない。
それでも。
何万人という観客がこの時期、京都へ集中する。
そんな混雑している一誠の烏丸御池の事務所に翔一郎とエマが中元の素麺を持参したのは、祇園祭の神輿洗の神事の日である。
「饗庭、外国の取材が来たらしいな」
「はい」
あのあとはイタリアやアメリカから仕事の依頼が来て、なかなか一誠に挨拶できずにいたのである。
「…えぇ加減、身ぃ固めたらどうや」
「はぃ…?」
エマと翔一郎は顔を見合わせた。
「当たり前やろ、おまえら世界にはばたかなあかんのやから、中途半端な関係はあかん」
一誠はタバコを吸い始めた。
「エマちゃん、こいつときどき精神的に脆くなりよるから、饗庭のことしっかり頼むで」
「…わかりました」
エマは満面の笑みで応じ、
「頑張らなきゃね」
「…そやな」
強い調子に翔一郎はタジタジになった。
帰路、エマと翔一郎は寄り道した柳馬場二条のハリストス正教会の前で、三脚とタイマーを繰って、並んで写真を撮った。
エマのリクエストで、
「まるで少女漫画やな」
翔一郎が突っ込みを入れるとエマは笑っていた。
二人が籍を入れたのは、宵山の日である。
「保証人なら俺がなったる」
一誠は懇意の町寺の住職と共に書類に署名を入れてくれたのであった。
山鉾巡行が済んだ。
何日かして二人は内々で、河原町三条のイタリアンのレストランの納涼床で結婚記念にというのでランチに出掛けた。
普段はエマも翔一郎も料理をするので、外食らしい外食はしないのだが、
「せっかくだから」
というエマの一言でランチが決まった。
夏場らしく冷やしパスタや新トマトのメニューが並ぶなか、コースにないシャーベットが運ばれてきた。
「すんません、これは…?」
「当店より、ご結婚記念のデザートでございます」
給仕は答えた。
途端にエマがクスクス笑い出した。
「何がおかしいんや?」
翔一郎はキョトンとした。
「…こっそりあたしが頼んどいたんだ」
「ほんまに」
よう驚かすやっちゃで、と翔一郎は鴨川の河原に目をやった。
そういえば。
出逢った日も同じような、雨の上がった日であったことを、翔一郎は思い出していた。