【完】『賀茂の流れに』
8 時雨の夜
珍しく紅葉崩しの時雨が降っている。
その夜。
智恵光院笹屋町の翔一郎たちが住む京町家を、夜中に乾賢海が訪ねてきた。
エマが出ると、
「愛ちゃんが、えらいことなってんで」
といい、ずぶ濡れ姿の愛を伴っている。
エマはとりあえず通り土間へ二人を上げ、着替えにパジャマを用意し、坪庭の奥の風呂を焚き、事務所の電灯を点けた。
「翔さんは?」
「打ち合わせで、もう少しで帰ると思います」
今はいない、という。
「そうか…」
「でも乾さん、なんで愛ちゃんと?」
それには少し解説が要る。
そもそも乾賢海とエマたちとのつながりは、翔一郎が駆け出しであった頃に仕事を乾が回していたことから始まっている。
陣内一誠という共通の知り合いがあったことから、翔一郎とは全く知らない間柄でもない。
それに。
ちょくちょく翔一郎が愛に写真を教えに虎之間へ連れてくるのを、乾も見知っている。
会釈ぐらいだが、乾は愛を知らない訳でもない。
で。
前述したが、乾賢海は西本願寺の寺僧でもある。
この日、寺の宿直(とのい)は乾ともう一人の別の僧が当番で、境内と周辺を見回っていた。
ついでながら西本願寺は敷地が東西は堀川通と大宮通、南北は花屋町通と七条通という広大な寺院で、特に唐門や飛雲閣がある南側は北小路通の道が細く、少し暗いのもあって、夜中はたまに違法の駐車がある。
そこで何やら変に騒がしい車が停まっているのを乾が見つけ、
(これは変やぞ)
と直感し、一本下がった興正寺の角の交番から巡査を呼んだ。
そこで一緒に戻って、車をこじ開けると、下半身を丸出しにした若い男たちに取り押さえられ、洋服を破られて今にも犯されそうになっていた愛がいたのである。
乾がすかさず車にあった箒の柄で男の局部に突きを入れると、ひるんだ隙を見た愛は逃げた。
ちょっとした騒ぎの怒号にそばの龍谷大学から何人か学生が出てきて周囲は捕物となったが、丸出しの男どもは全員が逮捕となった。
その頃。
乾は繁みに身を潜めていた愛を捜して見つけ出した。
「安心せぇ、おれは本願寺の者や」
そういうと能舞台へ抜ける通用口から境内にかくまって、下着姿から作務衣に着替えさせると、宗務所から西陣まで逃してきたのだ…との経緯をエマに語った。
「自分は宿直で寺に戻るよって、あとは頼むで」
そういうと乾は待たせてあったタクシーで、再び消えていった。
エマは愛の着替えを調えながら、
(翔くんが戻ったら、どうしたらいいか訊かないと)
と、ひとまず携帯の番号にかけてみた。
そのとき。
打ち合わせを終えた翔一郎は河原町三条で、久々に上洛してきていた青島薫と旧交を暖めていたが、着信が鳴った。
「…はい、おぅエマか」
顔色が変わった。
「えっ…愛ちゃんが?」
愛、という単語に青島薫も反応した。
「よっしゃ、戻るから待っとけ」
電話は切れた。
「愛ちゃん…って?」
「…お前の、元カノや」
翔一郎は手早く会計を済ますと雨の三条通に出た。
「饗庭、タクシーつかまえたで」
後ろで薫の声がする。
「おぉきに」
タクシーに翔一郎は薫と乗り込んだ。
「なんでお前が」
「おれは愛と別れた訳やない」
愛が勝手に姿消しただけや──と薫はいった。
タクシーの道中に薫が愛のことを話したことどもを繋ぎ合わせると、
「あいつ、こないだの津波で孤児になってん」
との話で、もともと被災の復興支援で東京の避難所を慰問したときに知り合ったのだという。
「あいつ、自分が親亡くしたのにボランティアで慰問とかのイベント手伝っとって」
それで何度か話すうちに、いつしか交際するようになっていたらしい。
「でも愛のやつ、どこで被災したかは、誰にも言うてへんらしいのや」
むろん薫も知らない。
「そんで、しばらく一緒に暮らしとってんけど、あるときいきなり消えてもうて」
まさか京都におるとは思わんかったけど、というと、薫は安堵したような顔をした。
「おれ、愛と一緒になろうって決めてんのや」
堀川通を丸太町通へ。
「あいつは、おれが守ったらなあかんのや」
智恵光院通へ入った。
一条通を過ぎ、橘公園でタクシーから降りた。
雨は止んでいる。
「ただいま」
少し節のついた調子でいった。
「お帰り…お客さん?」
「あ、こいつが前に話した青島薫」
薫は会釈した。
「で、愛ちゃんは?」
「奥でシャワー浴びてる」
「それにしても大丈夫やったんかなぁ」
「乾さんの話だと大丈夫みたい」
気づいたのが乾さんで良かった、とエマはいった。
「前に比べて京都も物騒になったで」
昔はこの手合いの事件ってたいがい大阪で起こったんやけどな、と翔一郎は笑わせてみたが、受けは芳しくない。
そこへ。
愛がエマに借りたパジャマ姿で通り土間に出てきた。
「エマちゃんありがとう」
目線を上げると、青島薫がいる。
「…どうして?」
「愛──」
駆け寄ると薫は愛をふんわり抱き締め、濡れた髪を撫でた。
途端に。
一気に気持ちがあふれたのか、愛は薫の胸にしがみついたまま、声を殺し泣いていたのである。
翔一郎はいたたまれなくなったのか、
「…ぶぶ漬け食べるわ」
呟いてキッチンに向かった。
エマは、どうすることも出来なかった。
夜が、明けた。
昨夜と打って変わって、透けるように真っ青な朝空である。
「せっかく再会できたんやし」
みんなで出かけようや──と薫がいうので、エマと翔一郎は少し話し合って、
「ほんなら紅葉でも見に行こか」
といい、連れ立ったのは嵯峨の宝筐院という、ガイドブックにすら載らない小さな禅寺であった。
「紅葉で穴場って思ったから、まあ直指庵とか二尊院とかいろいろチョイスはあったんやが」
そういうと翔一郎たちは、山門をくぐった。
庭園の小道は昨夜の時雨で散り敷かれた紅葉で緋色に彩られており、
「やかましい観光客とかおらんから、静かやしな」
というと翔一郎は、境内にあるという、
「変わったのがあんのや」
と、奥にある墓所へ連れていった。
そこには。
一角を石の塀と門に囲まれた二つの石塔がある。
正面の門には左に引両紋、右には菊水紋が刻まれてあって、そばの木札には、
「足利義詮公、並びに楠木正行公墓所」
とあった。
「これ、敵味方が並んでるお墓や」
「へぇー」
エマは素直に感心した。
薫と愛は、不思議そうな顔をした。
「先に右の石塔があって、あとから左に埋葬されたそうや」
というと「左は足利の将軍さんで、右はその敵の楠木一族の大将やったんやが、その楠木の大将が優れた人物やったから、足利の将軍さんは隣に墓建ててくれって遺言して、ほんで建てられたらしい」と翔一郎は簡単に説明した。
「そうなんだ…」
愛は呟いた。
「ここで敵味方やった人が一緒に眠ってるのを見ると、今の生きてる世界って、なんなんやろなって考えることがあんのや」
狭い了見やったら敵味方が並ぶなんて、考えられへんやろ?──そういいたげな顔を翔一郎はしている。
「ここに来て向き合うと、世の中がえらい小さく見えてきてやな、ゴテクサしたことに囚われんと、思ったまんまおった方がナンボましか分からんって、そんな気がすんのや」
世の中、そんなもんなんとちゃうかなぁ…何となく、エマは翔一郎のメッセージが、そこにあるような気がした。
その夜。
智恵光院笹屋町の翔一郎たちが住む京町家を、夜中に乾賢海が訪ねてきた。
エマが出ると、
「愛ちゃんが、えらいことなってんで」
といい、ずぶ濡れ姿の愛を伴っている。
エマはとりあえず通り土間へ二人を上げ、着替えにパジャマを用意し、坪庭の奥の風呂を焚き、事務所の電灯を点けた。
「翔さんは?」
「打ち合わせで、もう少しで帰ると思います」
今はいない、という。
「そうか…」
「でも乾さん、なんで愛ちゃんと?」
それには少し解説が要る。
そもそも乾賢海とエマたちとのつながりは、翔一郎が駆け出しであった頃に仕事を乾が回していたことから始まっている。
陣内一誠という共通の知り合いがあったことから、翔一郎とは全く知らない間柄でもない。
それに。
ちょくちょく翔一郎が愛に写真を教えに虎之間へ連れてくるのを、乾も見知っている。
会釈ぐらいだが、乾は愛を知らない訳でもない。
で。
前述したが、乾賢海は西本願寺の寺僧でもある。
この日、寺の宿直(とのい)は乾ともう一人の別の僧が当番で、境内と周辺を見回っていた。
ついでながら西本願寺は敷地が東西は堀川通と大宮通、南北は花屋町通と七条通という広大な寺院で、特に唐門や飛雲閣がある南側は北小路通の道が細く、少し暗いのもあって、夜中はたまに違法の駐車がある。
そこで何やら変に騒がしい車が停まっているのを乾が見つけ、
(これは変やぞ)
と直感し、一本下がった興正寺の角の交番から巡査を呼んだ。
そこで一緒に戻って、車をこじ開けると、下半身を丸出しにした若い男たちに取り押さえられ、洋服を破られて今にも犯されそうになっていた愛がいたのである。
乾がすかさず車にあった箒の柄で男の局部に突きを入れると、ひるんだ隙を見た愛は逃げた。
ちょっとした騒ぎの怒号にそばの龍谷大学から何人か学生が出てきて周囲は捕物となったが、丸出しの男どもは全員が逮捕となった。
その頃。
乾は繁みに身を潜めていた愛を捜して見つけ出した。
「安心せぇ、おれは本願寺の者や」
そういうと能舞台へ抜ける通用口から境内にかくまって、下着姿から作務衣に着替えさせると、宗務所から西陣まで逃してきたのだ…との経緯をエマに語った。
「自分は宿直で寺に戻るよって、あとは頼むで」
そういうと乾は待たせてあったタクシーで、再び消えていった。
エマは愛の着替えを調えながら、
(翔くんが戻ったら、どうしたらいいか訊かないと)
と、ひとまず携帯の番号にかけてみた。
そのとき。
打ち合わせを終えた翔一郎は河原町三条で、久々に上洛してきていた青島薫と旧交を暖めていたが、着信が鳴った。
「…はい、おぅエマか」
顔色が変わった。
「えっ…愛ちゃんが?」
愛、という単語に青島薫も反応した。
「よっしゃ、戻るから待っとけ」
電話は切れた。
「愛ちゃん…って?」
「…お前の、元カノや」
翔一郎は手早く会計を済ますと雨の三条通に出た。
「饗庭、タクシーつかまえたで」
後ろで薫の声がする。
「おぉきに」
タクシーに翔一郎は薫と乗り込んだ。
「なんでお前が」
「おれは愛と別れた訳やない」
愛が勝手に姿消しただけや──と薫はいった。
タクシーの道中に薫が愛のことを話したことどもを繋ぎ合わせると、
「あいつ、こないだの津波で孤児になってん」
との話で、もともと被災の復興支援で東京の避難所を慰問したときに知り合ったのだという。
「あいつ、自分が親亡くしたのにボランティアで慰問とかのイベント手伝っとって」
それで何度か話すうちに、いつしか交際するようになっていたらしい。
「でも愛のやつ、どこで被災したかは、誰にも言うてへんらしいのや」
むろん薫も知らない。
「そんで、しばらく一緒に暮らしとってんけど、あるときいきなり消えてもうて」
まさか京都におるとは思わんかったけど、というと、薫は安堵したような顔をした。
「おれ、愛と一緒になろうって決めてんのや」
堀川通を丸太町通へ。
「あいつは、おれが守ったらなあかんのや」
智恵光院通へ入った。
一条通を過ぎ、橘公園でタクシーから降りた。
雨は止んでいる。
「ただいま」
少し節のついた調子でいった。
「お帰り…お客さん?」
「あ、こいつが前に話した青島薫」
薫は会釈した。
「で、愛ちゃんは?」
「奥でシャワー浴びてる」
「それにしても大丈夫やったんかなぁ」
「乾さんの話だと大丈夫みたい」
気づいたのが乾さんで良かった、とエマはいった。
「前に比べて京都も物騒になったで」
昔はこの手合いの事件ってたいがい大阪で起こったんやけどな、と翔一郎は笑わせてみたが、受けは芳しくない。
そこへ。
愛がエマに借りたパジャマ姿で通り土間に出てきた。
「エマちゃんありがとう」
目線を上げると、青島薫がいる。
「…どうして?」
「愛──」
駆け寄ると薫は愛をふんわり抱き締め、濡れた髪を撫でた。
途端に。
一気に気持ちがあふれたのか、愛は薫の胸にしがみついたまま、声を殺し泣いていたのである。
翔一郎はいたたまれなくなったのか、
「…ぶぶ漬け食べるわ」
呟いてキッチンに向かった。
エマは、どうすることも出来なかった。
夜が、明けた。
昨夜と打って変わって、透けるように真っ青な朝空である。
「せっかく再会できたんやし」
みんなで出かけようや──と薫がいうので、エマと翔一郎は少し話し合って、
「ほんなら紅葉でも見に行こか」
といい、連れ立ったのは嵯峨の宝筐院という、ガイドブックにすら載らない小さな禅寺であった。
「紅葉で穴場って思ったから、まあ直指庵とか二尊院とかいろいろチョイスはあったんやが」
そういうと翔一郎たちは、山門をくぐった。
庭園の小道は昨夜の時雨で散り敷かれた紅葉で緋色に彩られており、
「やかましい観光客とかおらんから、静かやしな」
というと翔一郎は、境内にあるという、
「変わったのがあんのや」
と、奥にある墓所へ連れていった。
そこには。
一角を石の塀と門に囲まれた二つの石塔がある。
正面の門には左に引両紋、右には菊水紋が刻まれてあって、そばの木札には、
「足利義詮公、並びに楠木正行公墓所」
とあった。
「これ、敵味方が並んでるお墓や」
「へぇー」
エマは素直に感心した。
薫と愛は、不思議そうな顔をした。
「先に右の石塔があって、あとから左に埋葬されたそうや」
というと「左は足利の将軍さんで、右はその敵の楠木一族の大将やったんやが、その楠木の大将が優れた人物やったから、足利の将軍さんは隣に墓建ててくれって遺言して、ほんで建てられたらしい」と翔一郎は簡単に説明した。
「そうなんだ…」
愛は呟いた。
「ここで敵味方やった人が一緒に眠ってるのを見ると、今の生きてる世界って、なんなんやろなって考えることがあんのや」
狭い了見やったら敵味方が並ぶなんて、考えられへんやろ?──そういいたげな顔を翔一郎はしている。
「ここに来て向き合うと、世の中がえらい小さく見えてきてやな、ゴテクサしたことに囚われんと、思ったまんまおった方がナンボましか分からんって、そんな気がすんのや」
世の中、そんなもんなんとちゃうかなぁ…何となく、エマは翔一郎のメッセージが、そこにあるような気がした。