桜色ノ恋謌
皇女《和宮》がそれだ。
和宮親子内親王は、1846年に仁孝天皇の娘として生まれる。和宮が誕生した時には父はすでにこの世を去っており、跡を継いだ兄帝の孝明(こうめい)天皇により「和宮(かずのみや)」と名付けられた。
1851年、和宮は有栖川熾仁親王と婚約したが、その当時熾仁親王はまだ17才、和宮にいたってはわずか6才だったらしい。
幕府を倒し、天皇制の復活をめざす攘夷志士達が暗躍し、外からは開国を迫る諸外国が強い圧力をかけてくる。
それらに苦悩した幕府は、天皇家と幕府が親戚関係を結ぶことで江戸幕府の政治の延命ができると考えた。
いわゆる「公武合体」である。
1861年、有栖川宮との婚約を破棄し、若干16才という若さの十四代将軍家茂に嫁いだ和宮は、難題が山積みの政局を必死に乗り切ろうとする家茂に徐々に心を開いていく。
だが、天璋院の度重なる苛めを苦にして何度も家茂や兄天皇に訴える事もあったらしい。
家茂もやはり若くして病床につき、1866年にわずか20年という短い生涯を閉じてしまう。
和宮も早くに夫に先立たれた天璋院と同じく、嫁いでたったの5年で旦那さんに永遠の別れを告げたのだ。
翌1867年、勢いづいた新政府側は大政奉還を迫り、ついで王政復古を唱え幕府を廃するべく、更にその翌年には鳥羽・伏見で大勝利を納める。
和宮と天璋院は、二人揃って徳川幕府と朝廷軍の間に立ち調停役を担って幕府要人の助命を嘆願した。
そして時代は、【明治】という新しい波に飲み込まれていく―――。