スナック富士子【第四話】
「会いたい、と思うなら、明日か明後日に行けば良かったじゃないですか。」
青年が静かにけれどもはっきりと答えを求めるように問うた。男はジントニックのグラスを仰いで飲み干して、コトリとグラスをカウンターに置いた。
「うん。」
と男は答えた。その短い答えは確かに頷いているのにとても曖昧に聞こえる。会いに行けば良かったとも、会いに行かなくて良かったとも聞こえるような答えだった。男は空になったグラスを見つめていた。それから自嘲するように少し笑った。ため息のようなその笑い方は、青年にふと年の差を感じさせた。
「雨に濡れていることに気づかなかったから、濡れたままでいて、風邪を引いてしまった。」
と、男は目を上げて言った。それから空になったグラスを持ち上げて、青年に「おかわり」と告げた。青年は黙って頷いて棚からジントニックの青いボトルを取った。
「気づいてしまったんだ、きっと。今も分からないなんて嘘だよ」
男は青年の背後の棚を見つめている。
「明日、行ってみたらいいじゃない?荒療治になるかもしれないわよ?」
いつの間に隣に座っていたのか、富士子ママが頬杖をついて男に言った。青年は頷いて新しいジントニックのグラスを男に渡した。
「そうかなぁ・・・。」
会いたい、会いたくない、会いたい、会えない──
青年が背にしている棚にもしも本当に本が並んでいるのだとしたら、その背表紙で「花占い」をするように男は占っただろう、と青年は思う。
大人になる、ということは ──
青年は男から受け取った空のグラスを流しに置いて考える。蛇口から流れる水がグラスから溢れて渦巻いてシンクを薄く満たす。
大人になるということは、新鮮なものを失っていくことではないのか。経験を重ねて、辛いことも、悲しいことも、いつかも感じた辛さやいつか感じた悲しさで、やがて過ぎ去るのを待てる辛抱強さを育てていくのが大人になるということではないか。初めての恋が、いまは色褪せているように、いつしか恋する気持ちなんて新鮮さを失って、ドキドキすることもなくなってしまうのではないか。
でも、もしかしたらそうではなくて──
新しいグラスに新しい酒を満たすように、辛さも悲しさも、恋しさも愛しさも、今も昔も変わらずにグラスを満たす。アルコールが身体を満たすときのように、恋は体中の血液を巡らすだろうか。
「恋の病、ですね。免疫とかワクチンとか、ぜんぜんないんだ」
青年は笑った。
「そうよねえ、本当にね」
「そうだね。本当に。」
富士子ママも男も笑った。
「でも、きっとすぐ癒える。何度もそうやって乗り越えてきたんだ。この病に特に効くのは、『新しい恋』」
「そうね、新しい恋ってのはテキメンよねー。」
富士子ママに向けたその笑顔はとても爽やかで、青年は男が学生服を着ていたところをふと思い浮かべた。彼の隣にいた男もやはりこんなふうに爽やかに笑ったのだろう。
過去が増えていく、ということに想いを馳せる。本棚の背表紙を数えるように、いつか思い出をなぞるのだろうか。青年はスポンジを掴んでグラスを洗った。泡がふつふつと青年の手を撫ぜた。