スナック富士子【第四話】
第四話 「テンガロンハット」
テンガロンハットのへこみをおさえて口角を上げるのがこの男の癖だった。「機関銃のように」という表現があるけれど、話し始めればまさに機関銃のように話し続けるくせに、時折思慮深い顔をして黙り込む。そして言葉を選ぶその瞬間に、彼のトレードマークであるテンガロンハットに左手をやり口角を上げる。そうすると彼の頬には深い笑窪ができた。
彼がテンガロンハットをいくつ持っているのか誰も知らない。彼のマンションの一室は四方が棚でテンガロンハットがまるで陳列されているように並んでいるという噂もあるし、いや、その一室には棚なんてなくて、重ねたテンガロンハットが所狭しと立っているのだ、という噂もある。けれどもそういった話をする誰もが、実際に彼の部屋に入ったことがある訳ではなくて、「人から聞いた話だ」と言うのだった。
ある日は、洋楽のスターのようなショッキングピンクのテンガロンハットをかぶっていたかと思えば、ある日は黒いフェルトのような生地に黒いリボンテープのシックなものをかぶっている。ある日はストロー素材のテンガロンハットをかぶっているし、あるときはバンダナをツギハギしたようなものをかぶっていた。今日は黒っぽいスエードにフォークロアな青い石と革の紐がついたものをかぶっていて、それは彼が着ているフリンジのついたウェスタン風のベストによく合っていた。
どう?変わりはない?と、尋ねた富士子ママにチラリと目線を投げただけで組んだ手に顎を乗せた。ツンと上を見ているように見える。男は尋ねられたことに少しも考えた様子もなく「相変わらずよ」と答えて、今度は頬を乗せ、富士子ママをじっと見つめた。富士子ママは受けてたった、というように男を見つめ返す。
そうしていると、まるでふたりはテレパシーで語り合っているように見える。でも実際にはただ言葉もなくお互いの苦労を思いやっているだけだ。テンガロンハットの男は、この界隈の反対側の端っこで小さなバーをやっていた。
テンガロンハットの男は、それだから、スナック富士子に頻繁に来るわけではなかった。たとえば、そういったお店を経営している同士、お付き合いで来るというような感じでもない。ただ、彼なりの理由があって、時折富士子ママの横で酒を飲みたくなるのかもしれなかった。だいたいスナック富士子というところは、そういう場所だ。洒落たバーでもない、華やかなママや華やかなボーイがいるわけでもなかった。
富士子ママはこの界隈がこの界隈として存在し始めたころからいる、いわばこの界隈そのものといっていいような人だ。どのあたりにどんな店があって、どういうママが切り盛りしていた、あるいは切り盛りしている、どの店でどんな事件があって、どんな出入り禁止があって、まるで知らないふりで本当は全部知っている。
古くて狭いスナック富士子は、初めてこの町を訪れる人間にさえそのドアを開き、富士子ママはいつもと同じように彼らを迎えるけれど、そのほとんどの人間がもう二度とスナック富士子にたどり着くことができない。そして、二度目にこの店を訪れた人間はたとえそれが何年に一度であったとしてもまた必ずこの店を訪れる。毎週訪れたかと思えばパタリと姿を見せなくなる客がいて、でもまた彼は必ずやってくる。富士子ママの店はそういう店だ。
テンガロンハットの男はカウンターに腕を延べて額をのせた。斜に構えるように座っていた彼がそうすると、彼はちょうど、肩越しにスナック富士子の軋みがひどいドアを見るような角度になった。ドアを開けるとカラランと鳴るカウベルがクローサーにぶら下がっている。
「放牧よね」
と、テンガロンハットの男が呟いた。
富士子ママは薄い水割りを口に当てて、ほんの少し口を湿らす。富士子ママも若いようで年だ。聞こえなかったのかもしれなかった。テンガロンハットは頭を上げて、斜めにずれた帽子を左手で直すと、富士子ママと同じように水割りのグラスを唇に当ててもう一度言った。
「放牧よ。」
「ホウボク?」
富士子ママは興味なさそうに繰り返す。
「ママのカウベルも、私のこの帽子もよ。ホッカイドー、デッカイドー!って話よ。」
「でっかいのは良いわよね」
「やぁね、何の話してんのよ。あんたはもう枯れてんじゃないのよ。」
「失礼ね、枯れてないわよ、愛の泉っていうのは枯れることがないのよ。」
「そうだわ、思い出した、枯れてるって言えばさ!ね、富士子ママ、ちょっと聞いてよ!」
テンガロンハットの男がスナック富士子を訪れるとき、そういえば彼はいつもその黒いスエードのものをかぶっている。ターコイズの小さな石と黒い革紐の付いたちょっと洒落たテンガロンハットだった。よく見るとところどころが煤けた灰色になっている。年季の入ったテンガロンハットだ。
機関銃のように話し始めたテンガロンハットの男の横で、富士子ママが笑っている。大きな口をあけると銀歯がのぞいた。手のひらサイズの竹かごに載ったナッツを口に放り込む。ぎゅっとかみ締めて微笑みを残した顔でテンガロンハットの男の横顔を見守っていた。テンガロンハットはナッツをつまんでそれを弄りながら機関銃を発射し続けている。
第四話終わり
彼がテンガロンハットをいくつ持っているのか誰も知らない。彼のマンションの一室は四方が棚でテンガロンハットがまるで陳列されているように並んでいるという噂もあるし、いや、その一室には棚なんてなくて、重ねたテンガロンハットが所狭しと立っているのだ、という噂もある。けれどもそういった話をする誰もが、実際に彼の部屋に入ったことがある訳ではなくて、「人から聞いた話だ」と言うのだった。
ある日は、洋楽のスターのようなショッキングピンクのテンガロンハットをかぶっていたかと思えば、ある日は黒いフェルトのような生地に黒いリボンテープのシックなものをかぶっている。ある日はストロー素材のテンガロンハットをかぶっているし、あるときはバンダナをツギハギしたようなものをかぶっていた。今日は黒っぽいスエードにフォークロアな青い石と革の紐がついたものをかぶっていて、それは彼が着ているフリンジのついたウェスタン風のベストによく合っていた。
どう?変わりはない?と、尋ねた富士子ママにチラリと目線を投げただけで組んだ手に顎を乗せた。ツンと上を見ているように見える。男は尋ねられたことに少しも考えた様子もなく「相変わらずよ」と答えて、今度は頬を乗せ、富士子ママをじっと見つめた。富士子ママは受けてたった、というように男を見つめ返す。
そうしていると、まるでふたりはテレパシーで語り合っているように見える。でも実際にはただ言葉もなくお互いの苦労を思いやっているだけだ。テンガロンハットの男は、この界隈の反対側の端っこで小さなバーをやっていた。
テンガロンハットの男は、それだから、スナック富士子に頻繁に来るわけではなかった。たとえば、そういったお店を経営している同士、お付き合いで来るというような感じでもない。ただ、彼なりの理由があって、時折富士子ママの横で酒を飲みたくなるのかもしれなかった。だいたいスナック富士子というところは、そういう場所だ。洒落たバーでもない、華やかなママや華やかなボーイがいるわけでもなかった。
富士子ママはこの界隈がこの界隈として存在し始めたころからいる、いわばこの界隈そのものといっていいような人だ。どのあたりにどんな店があって、どういうママが切り盛りしていた、あるいは切り盛りしている、どの店でどんな事件があって、どんな出入り禁止があって、まるで知らないふりで本当は全部知っている。
古くて狭いスナック富士子は、初めてこの町を訪れる人間にさえそのドアを開き、富士子ママはいつもと同じように彼らを迎えるけれど、そのほとんどの人間がもう二度とスナック富士子にたどり着くことができない。そして、二度目にこの店を訪れた人間はたとえそれが何年に一度であったとしてもまた必ずこの店を訪れる。毎週訪れたかと思えばパタリと姿を見せなくなる客がいて、でもまた彼は必ずやってくる。富士子ママの店はそういう店だ。
テンガロンハットの男はカウンターに腕を延べて額をのせた。斜に構えるように座っていた彼がそうすると、彼はちょうど、肩越しにスナック富士子の軋みがひどいドアを見るような角度になった。ドアを開けるとカラランと鳴るカウベルがクローサーにぶら下がっている。
「放牧よね」
と、テンガロンハットの男が呟いた。
富士子ママは薄い水割りを口に当てて、ほんの少し口を湿らす。富士子ママも若いようで年だ。聞こえなかったのかもしれなかった。テンガロンハットは頭を上げて、斜めにずれた帽子を左手で直すと、富士子ママと同じように水割りのグラスを唇に当ててもう一度言った。
「放牧よ。」
「ホウボク?」
富士子ママは興味なさそうに繰り返す。
「ママのカウベルも、私のこの帽子もよ。ホッカイドー、デッカイドー!って話よ。」
「でっかいのは良いわよね」
「やぁね、何の話してんのよ。あんたはもう枯れてんじゃないのよ。」
「失礼ね、枯れてないわよ、愛の泉っていうのは枯れることがないのよ。」
「そうだわ、思い出した、枯れてるって言えばさ!ね、富士子ママ、ちょっと聞いてよ!」
テンガロンハットの男がスナック富士子を訪れるとき、そういえば彼はいつもその黒いスエードのものをかぶっている。ターコイズの小さな石と黒い革紐の付いたちょっと洒落たテンガロンハットだった。よく見るとところどころが煤けた灰色になっている。年季の入ったテンガロンハットだ。
機関銃のように話し始めたテンガロンハットの男の横で、富士子ママが笑っている。大きな口をあけると銀歯がのぞいた。手のひらサイズの竹かごに載ったナッツを口に放り込む。ぎゅっとかみ締めて微笑みを残した顔でテンガロンハットの男の横顔を見守っていた。テンガロンハットはナッツをつまんでそれを弄りながら機関銃を発射し続けている。
第四話終わり