ボレロ - 第三楽章 -

6. mosso モッソ (躍動して)



晩秋の朝は暗く、すべてはまだ闇の中だった。

暗闇の中で目を凝らすと、はじめこそ何も見えなかったが、次第に家具の輪郭が

見えてきた。

ほどなく歩けるほどに目が慣れ、部屋の様子が浮かび上がってくる。

闇の中の見えなかった真実も、しっかりと目を開ければ必ず見えるはず。

私たちを惑わすのは誰か、どれが虚偽で真実はどこに……

軽い興奮状態のせいか、神経が研ぎ澄まされていたためか、宗の懐に包まれても

深い眠りにつくことができず、浅い眠りから目覚めると、心地良い疲労感を抱え

た体を横たえながら、思いつくまま疑問を並べていた。


昨夜、レストランを出る間際、知弘さんが素早く私の耳にささやいた。

「今夜は僕と一緒に外部研修に参加ということになっている。とりあえず家まで

送るが、裏にタクシーを手配しておく」 家には戻らず彼の元へ行くように、

浅見君には内緒だ と……

目配せで了解の返事をして車に乗り込み、私はひとまず自宅へ帰った。 

知弘さんと浅見さんに別れを告げ、彼らの乗った車を見送ると家の玄関には入ら

ず、通用門を抜け、裏口に待っていたタクシーで宗が滞在しているホテルへと向

かった。


彼がまだ戻っていなければ部屋で待つつもりでいた。

ホテルに着き、正面玄関へ向かう途中、タクシーから見えた光景は私を狼狽さ

せた。

ロビー奥のラウンジの窓側に宗と浅見さんの姿があった。

浅見さんも知弘さんが送っていったはず、それなのに、なぜ彼女がここにいるの?

私と同じように宗に会いに来たのだろうか……


タクシーを降り、彼女から見えないよう細心の注意を払いながら、ロビーへと体を

滑り込ませ、急ぎエレベーター前にたどり着いた。

扉が開いたエレベーターに乗り込み宗の部屋がある階を指でタッチしたとたん、

とてつもない疲労感に襲われた。

壁に体を預け、立っているのもやっとだった。

目を閉じると、背中を伝う浅見さんの髪が瞼の裏に鮮明に蘇った。

結われていたはずの髪は、美しさを誇示するように肩から背中に広がり、 

顔を傾けながら宗へ話しかける仕草は愛らしく、それは秘書の顔ではなかった。

タクシーの窓から垣間見た一場面なのに、どうしてこんなにも目に焼きついている

のか。

知弘さんが 「彼の元へ行くように」 とささやいたのは、会えない私たちのために

会う機会を作ってくれたのだと思っていた。

もしかしたら、そうではなかったのかもしれない。

浅見さんの行動を予期して、私に彼のもとへ行けと言ってくれたのか……


彼女が宗に会う目的は何?

わざわざ髪をとき滞在先に会いに行くなんて……誘惑でもするつもり?

頭を振り不愉快な想像を追い出した。

宗の部屋に入り彼を待つ10数分は、波打つ気持ちを抑えるための時間であり、

浅見さんへの疑惑が増した時間でもあった。


ほどなく部屋に来た彼は、私の訪問に驚きながらも満面の笑みで迎えてくれた。

今夜は泊まっていけるのか……と不安そうな顔で聞く宗に、明日の朝送ってくだ

さるわねと告げると、彼は素直に嬉しそうな顔をした。

いままでラウンジで浅見さんと会っていた、彼女を部屋に通さなくて良かったよ、

部屋に通したら誤解を招くところだったと、笑いながら彼女に会った事実を口に

した。

深夜近く女性と会っていたことも、彼には隠すに値するものではなく、私への後ろ

めたさの片鱗はまったくない。

けれど……彼の愛情が私へ真っ直ぐ向いている確かな手応えが欲しかった。


久しく触れられることのなかった肌は宗の手を敏感に感じ取り、瞬く間に色づいた。

緩急の刺激に身をよじり、甘い息がもれる。 

押し寄せる快感に目を閉じると彼女の艶やかな髪が目の前に広がり、嫉妬にも

似た感情が沸き起こった。

振り払えぬ嫉妬は激情になり、宗へ挑む熱に変わっていった。

私の熱に応えるように、彼もまた私を離そうとしない。

熱にうかされた体が休息を欲したのは明け方近くだった。

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