ボレロ - 第三楽章 -
浅見さんも話をやめ、私と顔を見合わせた。
「なにかしら」
「マンションのほかの部屋の人じゃない?」
「いいえ、このフロアに他に住む人はいないわ……」
「えっ、誰もいないの? どうして」
「みんな出て行ったのよ」
吐き捨てるように ”出て行った” と言いながら、浅見さんは立ち上がりインターホンを確認した。
ドアスコープで玄関の外をうかがっていたが、顔色が変わり、その足で玄関に向かった。
私も彼女のあとについていき玄関前まできた。
彼女が玄関を開けた隙に外に出られるのではないかと、微かな期待を胸に抱いていたのだが、それはほどなく崩された。
浅見さんが玄関ドアをあけようとするが開かないのだ。
途中から私も手伝いドアを開けようと試みたが、障害物に阻まれドアはビクとも動かなかった。
「ドアの前に何かを置かれたのよ。いったい誰がこんないたずらをしたの?」
「いたずらじゃない。彼よ、彼が来たんだわ」
「彼? 彼って……浜尾課長? 私たち閉じ込められたの?」
「ビルの屋上と同じ手を使うなんて、芸のないこと」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! 何とかしなければ」
「助けて! 誰かいませんか」 と大声を出す私へ浅見さんが 「無駄よ」 とひとこと言った。
マンションに欠陥が見つかり、住人のほとんどは出て行ったのだそうだ。
この部屋は浜尾課長の所有で、彼も出て行く予定になっているという。
「誰かにきてもらいましょう。電話を貸して」
「それはだめ! 私が弟を呼ぶわ。時間がかかるけど、あの子にきてもらえば……」
そのときだった、浅見さんの表情が苦しそうになり顔を引きつらせた。
どうしたのかと聞いても、大丈夫だとしか言わない。
苦しい顔をしながら弟に電話をしていたが、顔には汗が滲んでいる。
「どこかに痛みがあるんじゃないの?」
「少し……腹部が痛むだけだから……」
「救急車を呼んだほうがいいわ。もし急性の」
「ダメだといったでしょう! 弟が来てくれるから、それまで待つの……」
時計を見ると真夜中の三時だった。
まだ私の居場所を特定できないのだろうか。
彼らの力を総動員したなら、浅見さんから浜尾課長にたどり着くはず。
マンションの所在が明らかになれば、私を見つけ出してくれる、きっと……
痛みに耐える浅見さんを前に、祈るような気持ちで手を握り締めた。
「大丈夫、彼らが私たちを見つけ出すわ」
「彼らって、副社長がここに来るとでも思ってるの?」
「そうよ。宗は私の異変に気がついていた。間違いなくここにたどり着くでしょうね」
「異変?」
「さっきの電話、彼が私に伝えたメッセージがあなたにはわからなかったのね」
「メッセージ? そんなのなかったわ」
「彼は友人たちと飲んでいると言ったでしょう? 朝まで飲むことになりそうだと。
そんなの、まずありえないわ」
「どうして! 何がありえないの?」
「彼は、近衛宗一郎はお酒を飲まないの」
「ウソよ、酒を飲まないなんて。副社長はお強いわ。どれほど飲んでも乱れた姿を見たことはないもの」
「本当よ。まったくといっていいほど飲めない体質なの。あなたの前で飲んでいたのは、ノンアルコールのドリンク」
「まさか……」
「それに、電話の向こうから大学の同級生ではない方の声が聞こえたわ。
彼らが集まっているとしたら、それは」
「あなたを救い出すための作戦会議だとでも言うの? よくもそんなことを考えられるものだわ。おめでたい人ね。
自分の都合よく話をまとめているだけじゃない、そんなの妄想よ」
腹部を押さえながら、なおも、そんなことないわと言う浅見さんを抱きかかえた。
額には油汗が滲み、痛みが相当強いことを物語っている。
自分のためではなく、弟に累が及ばないようにしたい一心なのだろう。
こんなになりながらも、まだ助けを呼ぼうとしない彼女が哀れで愛しく思えた。