ボレロ - 第三楽章 -
『もしもし、珠貴です。お電話をくださったでしょう。気がつかなくてごめんなさいね』
一日ぶりに聞く声だったが、もう何日も聞いていないのではないかと思うほど、彼女の声が懐かしかった。
大丈夫か、危険な目にあってないか、そこはどこだ、誰と一緒にいるんだ!
聞きたいことはいくらでもあるのに、それを口にできないもどかしさがあったが平静を装わなければならない。
つとめて明るい声をだした。
『そうか、また誘拐でもされたのかと心配したよ』
誘拐という言葉に少なからず反応したのだろう、まさか……と返ってきた珠貴の声は心なしか震えていた。
潤一郎が言ったようにハンズフリーで話しているのだろう、向こう側の声がやけに響いて聞こえてきた。
『……そちら賑やかね。お友達とご一緒?』
『今夜は大学の仲間と飲んでるんだ。この調子では午前様だろうな』
『宗一郎さん、あまり飲みすぎないでね』
宗一郎さん……
こんな風に呼ばれたのは久しぶりだった。
珠貴のそばに誰かがいる、そうでなければ 「宗」 と呼びかけるはずだ。
互いに演技をしながらの会話がすすんでいたが、珠貴の声の様子はおおむね落ち着いていた。
必ず助けに行く、それまで待っててくれ……
伝えられないメッセージを心で唱えながら、まったく違う言葉を告げた。
『誰に言ってる、俺が酔うとでも? そんな心配はいらないよ。そうだ、明日だが出張が入った。
数日間出かける、平岡も一緒だ。残念だが、明日の予定はキャンセルさせてくれないか』
『わかりました。気をつけていってらっしゃい』
『夜も接待続きだから電話もできない。帰ってきたら会おう』
平岡も私も留守であると強調した内容を伝え、電話を終えた。
大きくため息をついた私の背中を、よくやったと褒めるように沢渡さんが軽く叩いた。
「珠貴さんも安心したでしょう。さぁ、次は居場所を突き止めましょう。といっても、私には見当もつきませんが」
「彼女の弟なら……中島なら、姉の行き先に心当たりがあるかもしれないな。聞いてみます」
「僕も浜尾課長を探ってみます」
櫻井君と平岡がさっそく電話をはじめ、ほかの友人たちも動き出した。
彼らの行動力は頼もしくありがたいものだった。
辛抱強く中島を説得してくれた櫻井君のおかげで、中島から 「姉から電話がありました」 と連絡があり、友人たちとともに浅見君と珠貴の居場所へと向かった。
途中で浜尾課長と遭遇し、彼と部下二人の身柄を拘束した。
玄関扉を封じられた部屋の中で、腹痛を訴える浅見君と、私の顔を見て腕の中で気を失ってしまった珠貴を救出したのは明け方だった。
抱きかかえた腕から熱いと伝わるほどの高熱だったが、この手に珠貴を取り戻した実感があった。
帰路についた車の窓から見えたのは、冬の朝日が昇りかけた空が朱色に染まった美しい光景だった。