ボレロ - 第三楽章 -


「取引のある建築業者から聞いた話ですが、ひどいもんです。手抜き工事が発覚したマンションでした。
転売もできませんから施工主が買い取る事になりましたが、買い取ってもらっても新たにマンションを購入する金額には遠く及びません。
多くは引っ越しましたが、行き場所がなくて住み続ける住人もいるようです」


「名義は浜尾課長のままだった。結局は、浅見さんには一円も支払われていないのも同じだ」


「ひどいわ……心も体を傷つけられて……ねぇ、それで、その課長はどうなったの? 
まさか、なんの罪にも問われないなんてこと、ないでしょうね」



紫子に詰め寄られた潤一郎は困った顔になり、続きは任せたといわんばかりに私へ顔を向けてきた。



「浜尾直之は解雇した」


「解雇……当然ね。ほかには?」


「ほかって、ほかに何がある」


「警察に引き渡すとか、訴えるとか、いろいろあるでしょう」


「解雇だけだ。警察に引き渡すつもりも、訴えるつもりもない」

 
「どうして! 彼はマスコミを利用して近衛を落としいれようとした人よ。
浅見さんの体にも心にも傷を負わせたわ。女性にひどいことをしたのよ。
それだけじゃない、中に人がいるとわかっていながら、マンションの入り口をふさいだのは監禁と同じでしょう。
罰せられるべきだわ」



幼馴染でもある弟の妻は、私に対して遠慮のない口のききかたをする。

もっとも、紫子の言い分は、そこにいる女性全員の意見といってもよかった。



「浜尾直之を訴えれば、浅見さんの関与も明らかにしなければならない。近衛の内部事情も公になる。
珠貴さんや須藤家へも調べがいくだろう、多方面に迷惑がかかるんだよ」


「だけど……あれだけのことをしておいて、なんの責任も負わないなんて、そんなことがあっていいの?」



憤慨やるかたない様子の紫子は、なおも私に詰め寄ってきた。



「目に見える罰はないだろうが、彼はこれから一生苦しい環境に身をおくことになる。
世の中の罰を受けるはずだ」


「宗一郎さん、それはどういうこと?」


「辞めたのと辞めさせられたのでは雲泥の差がある。この先、浜尾直之を雇うところはないだろう。
近衛に浜尾一族ありということは、案外知られているからね。
浜尾一族である彼がなぜ近衛を辞めたのか、雇い主は不信に思うだろう。
調べれば解雇になった事実はすぐにわかる」


「彼の身の上に、同情する人がいるかもしれないわ」


「同情するに値する人物ならそれもあるだろうが、果たして近衛グループを敵に回してまで雇うだろうか。
知らない土地で経歴詐称でもしない限り、あらたな職には就けないよ」


「自分で事業を立ち上げるかも知れないわ」


「起業したとして、どこが融資するかな。どこも名乗りを上げないだろうね。
取引先はどうだろう、どこも関わろうとしないはずだ」



あっと小さく声をあげた紫子に、潤一郎がさらに告げた。



「彼は、四面楚歌の言葉どおりの状況に置かれるだろうね」


「……世間に裁かれるのね……」



わかったわというと、紫子は深いため息をついた。

静まり返ったみなを見渡しながら、狩野がニヤリと笑った。



「みんな覚えておくことだ。近衛を敵に回すと恐ろしい事になるぞ」


「あぁ、怖いですね。これからも仲良くさせてもらわなくては」



沢渡さんが私を向いてグラスをかかげ 「頼みますよ」 と拝むように告げる。

冗談めいた仕草がみなの笑いを引き出した。



「浅見秘書の処分はどのように?」


「自己都合の退職という名目で、辞表を書いてもらいました」


「そうですか……それを聞いて、浜尾さんの気持ちも少し軽くなるといいですね」


「えぇ……」



彼女ほどのキャリアがあればどこでも採用されるでしょうとの珠貴の言葉に、櫻井君は何度も頷いた。

浅見君の心配をしての質問かと思っていたが、櫻井君の心配は浜尾君に向けられていたようだ。

櫻井君がなぜ、浜尾君の身をそれほどまで案じるのか不思議だったが、そのときの私は彼女の心中を慮っているのだろうくらいの気持ちだった。 

< 140 / 349 >

この作品をシェア

pagetop