ボレロ - 第三楽章 -
珠貴の腕に頼りながら部屋に帰ったところまでは覚えているが、服を脱いだ記憶もなければ、ベッドに入った記憶もない。
目覚ましのアラーム音に起こされて、俺はベッドに寝ていたのかと気づいた。
彼女の柔らかな肌に触れようと手をのばしたが、手に伝わってきたのはシーツの冷たさだった。
隣りに珠貴の寝顔がないということは、部屋に送ってくれたあと帰ったのか。
私が酔っておらず意識がハッキリしていたとしても、須藤社長にお会いしたその夜、朝まで一緒にいてほしいとは言えなかっただろう。
それでも、見送りもせず悪かったと思う気持ちと、泊まってはくれなかったのかと拗ねたくなる思いが交互に訪れる 。
ぬくもりのないシーツを未練がましくなでながら、部屋にひとり置き去りにされた寂しさを抱えていたが、突然鳴り出した電話の音に体が跳ねるほど驚いた。
いつだったか、同じようなシチュエーションがあった。
眠い目を無理やり開け、もしや彼か……と予想しながら急ぎ発信者の名確かめた。
”漆原琉二カメラマン”
予想が的中した嬉しさなどなく、顔をしかめながら電話に出た。
『今朝はすぐに目が覚めたみたいですね。それとも起きてましたか?』
『呼び出しに出遅れて、えらく怒鳴られたことがありましたからね。名前を見て緊張しましたよ』
そういえばそんなことがありましたねと、電話の向こうから小さな笑いが聞こえた。
漆原さんの声の様子から、前ほど緊迫したものは感じられないものの、早朝の電話は良いものではないらしい。
『今朝も良くない知らせなんでしょう?』
『良い知らせと悪い知らせ、どっちを先に聞きますか』
『どこかで聞いたようなセリフだな。じゃぁ、悪いほうから』
『了解』
漆原さんは話す前にひと呼吸おき、ふぅ……と息を吐いた。
こんな様子もこの前とは違っている。
写真週刊誌に記事が載った一報を知らせてきた時は、怒鳴りながら言葉を吐き出していた。
今朝の知らせは一刻を争うものではなさそうだ……と悠長にしていられたのもここまでで、漆原さんの話を聞いて声を荒げたのは私だった。
『須藤専務と静夏さんのことがマスコミに流れました。今日発売の週刊誌に載ってますよ。
いわゆるゴシップ誌です』
『どこの週刊誌だ!』
『まぁ、聞いてください。えげつない内容ですが、怒るのはあとにしてくださいよ』
そう前置きして、雑誌の名を告げてから漆原さんの報告が始まったが、想像以上の内容に 電話を持つ手がわなわなと震えてきた。
『社長令嬢と独身エグゼブティブのもう一つの顔……というのが見出しです。
大企業の社長を父に持つ令嬢が留学先で親しくなったのは、繊維メーカーのトップS社専務である。
彼は独身のエグゼブティブとして先ごろ話題になったばかりであるから、読者の記憶にも新しいだろう。
令嬢のとりこになったS専務は、彼女に会うためにひんぱんに海外出張に出掛け、仕事に支障をきたすほどになっていた。
先ごろ彼女の妊娠が明らかになり、父親である社長から多額の慰謝料を請求されているという。
令嬢の兄も女性騒動で世間を騒がせたばかりである……
とまぁ、こんな記事です。宗一郎さん 聞こえてますか?』
彼の話に相槌をうつのも腹立たしく、終始口を閉ざしていた。
露骨で悪意に満ちた内容に声もでなかったのだ。
『聞こえてるよ。よくもでたらめが書けたものだ』
『近衛ホールディングス 元社員H と名乗る人物からの情報だと雑誌に掲載されています』
『H……浜尾直之か』
『そうでしょうね』
数時間前の悪い予感が現実になった。