ボレロ - 第三楽章 -
「傷害事件で訴えるだの、近衛の実態を暴いてやるだのわめいているときだった。
直之の父親が現れて、いきなり彼を殴りつけた。
ひっくり返った息子に向かって ”私も訴えるつもりか!” と言いながらまた殴りだしたものだから、平岡たちと止めたんだが……」
父親の怒りに満ちた目が哀れだった。
どれほどの悪事を働こうが味方であったはずの父親が、息子に見切りを付けた目だった。
「今朝、直之の父親から辞表が出された。
逃げ道を残しておいてやったのに……これで親の庇護も受けられなくなった」
「そうですね。職や信用を損なう失態をおかしても、親は最後まで子どもをかばうものです。
だが、その親も世間的立場を失ってしまったら、何もしてやれませんから」
「行き着くところまで行き着いたな。ヤツの悪運もつきたか」
沢渡さんと狩野の言葉が、浜尾直之の置かれた状況のすべてを語っていた
みな聞き入っていたが それまで黙っていた櫻井君が声を絞り出すように話し出した。
「そうでしょうか。結局、浜尾直之の思ったような結果を迎えたんじゃありませんか。
何もかも、彼が願ったとおりになったんですよ」
「そんなことはない。アイツの痛手はかなりのものだ」
「浜尾さんやほかの人はどうなるんですか。
彼のせいで辞表を出すまでに追い詰められたんですよ」
「辞表は保留にしている。直之の父親を除くほかの社員も同じだ、辞表は受理されていない」
「そうですか……でも、彼女が一度出した辞表を撤回するとは思えません。
彼女の生真面目な性格なら……」
そんなことはないと、櫻井君へ言い返すことができなかった。
浜尾真琴が、このまま辞めることになるのではないかとの思いは私にもあった。
一度言い出したらなにがなんでもやりとおす意志の強さは、融通のきかない頑固な部分につながっている。
彼女の真面目で一途な性格は、ときとして厄介であるということも幼い頃から知っていた。
それにしても、なぜ櫻井君がここまで浜尾真琴の心配をするのだろうか。
彼女とさほど接点があったとは思えないのだが……
「彼女はいま、どうしているんですか」
「辞表は保留にすると伝えて、とりあえず休暇をとらせた。昨日から休暇に入っている」
「ふだんから、よほどのことがなければ休暇をとらない人ですから、有給もほとんど残っています。
年明けまで休んでも大丈夫なほどです」
私と平岡の説明を櫻井君は黙って聞いていた。
「それでは、おまえやほかの役員が困るだろう。
浜尾さんに休まれると仕事に支障がでるんじゃないのか?」
「堂本が彼女の代わりを務めている。仕事ぶりも浜尾君に引けをとらない。
役員の評判もいい」
「浜尾さん、堂本君を熱心に指導していましたからね……
こんなときそれが役立つなんて、皮肉なものです」
「彼は 『SUDO』 には戻らないのか。
浅見秘書との相互派遣がなくなったんだ、近衛に留まる理由はないだろう」
「戻るつもりはないそうだ」
なぜ堂本が 『SUDO』 へ戻るつもりはないと言ったのか、それも気になっていた。
珠貴が言うように、彼と静夏のあいだに何かあったのか……
だが、こちらが無理に引き止めたのではなく、本人の希望で残るのだ。
堂本の有能さはみなが認めるもので、私にとっても近衛にとっても彼の申し出は願ったりだった。