ボレロ - 第三楽章 -
自室に戻り、煙草を一本取り出し火をつけようとして手が止まった。
”煙草はおやめになったほうがよろしいかと。体によくありません……将来のためにも、そうなさってください”
見舞いに行ったおり、浅見さんが伝えてくれた言葉を思い出した。
言い終えて、自分の腹部に目を落とした彼女の顔には後悔が滲んでいた。
将来命を授かるときにそなえてくださいと、浅見さんは言ってくれたのだ。
私にもそんな日がくるのだろうか。
煙草を手にしたまま不透明な未来を想像していると、ドアをノックする音がして 「僕だ」 と声がした。
「まだ吸っていたのか」
「あら、知ってたの?」
「高校生の姪から煙草の臭いがしたときは驚いたが、一時的なものだと気づかぬふりをしていた。
やめたとばかり思っていたのに……女性の体にはよくないよ」
「そうね。でも、やりきれないときがあるの」
妊娠中の妻がいる知弘さんの言葉は、浅見さんの助言と同じく重みがあった。
言い訳をしたものの、指にはさんでいた煙草をケースに戻し引き出しにしまった。
「難しい顔をしてどうした。宗一郎君とケンカでもしたんじゃないだろうね」
「ケンカの相手はお父さまよ」
「兄さんと?」
数日前の父とのやり取りを話し、それから気まずい空気が漂っていると言うと、そうか……とため息交じりの顔が向けられた。
「珠貴の言葉は父親として耳が痛かっただろうね。機嫌の悪さは心の裏返しだよ」
「なぜ? 私はお父さまに逆らっていないわ。お父さまに言われたようにします、そのつもりでいますと言ったのに」
「家を出る、跡を継ぐ気はないと言われたら、それなりに反論できるが、言われたように従いますと娘に言われては、親としては娘を縛り付けている気がするんだろう」
「勝手な言い分だわ。そういう風に私を育てたのはお父さまなのよ」
「だからそこがジレンマだ。兄さんも苦しいんだろう、焦らず待つことだよ」
「知弘さんもお母さまと同じことを言うのね」
「義姉さんがそんなことを……ふっ、そうか」
知弘さんが笑ったのはどういう意味なのか。
どうして笑ったの? と聞いてみたが、それには答えてくれなかった。
みんなが待っているよと言われ、まだスッキリとしない気持ちのまま広間へと戻った。
私の顔が見えると、待っていたように祖父が私を手招きした。
「珠貴、明日あいているか」
「特に予定はありませんけれど」
「そうか、それなら珠貴に頼もう」
祖母と顔を見合わせ頷き合っている。
頭をかしげる私へ祖母から話があった。
静夏ちゃんが、ベルン滞在中にお世話になった近衛の大叔母さまへ挨拶に行きたいのだが、同行してもらえないかということだった。
「明日は、夕方からお出かけになられるご予定だそうで、午前中にお伺いいたしますとお伝えしたんですよ」
「わかりました。ご一緒します」
「いや、私が行こう」
口を挟んできたのは父だった。
自分も挨拶をしたほうがいいだろうから、一緒に行くと言い出したのだ。
父のいうことも一理あるが、私を宗の親族に近づけないためではないかと勘ぐってみたくなる。
きっとそうだ、どこまでも私の邪魔をするつもりなのだろう。
父の大人気ない横槍に呆れていると、
「孝一郎、おまえが行くと大げさになる。珠貴に頼むからいい」
このように祖父が断ったのに 「ですが……」 とまだ食い下がってくる。
だが、母の言葉を聞き思いとどまったようだ。
「あなた、明日は木藤さんとお約束があると、おっしゃっていたではありませんか」
「あぁ、そうだった」
動かしようのない予定が入っていたらしく諦めたようだ。
今年の大晦日は、宗が 『吉祥』 に出かける前に一緒に食事をするはずだったが、彼に急な用事が入ってしまったため、私の時間はぽっかり空いていた。
自室の片付けでもしようかと思っていたが、祖父母の付き添いで出かけることになり、近衛の大叔母さまにお会いできる楽しみができた。
片付けなどいつでもできる、なにより父と顔を合わせずにすむのがありがたかった。