ボレロ - 第三楽章 -
暖房が効いているとはいえ、広々とした神殿は寒々しい。
『社運隆昌』 『事業繁栄』 などの声が朗々と響いていたが、今日の私は 「社運祈願」 は二の次だ。
神官が唱える祝詞を聞きながら、どのタイミングで須藤社長に話しかけようかと、そればかりを考えていた。
祈祷が終了し、神殿を出て待合室までの長い廊下を歩きながら、少しずつ須藤社長に近寄っていった。
ところが、一緒に祈祷を受けた老齢の男性が須藤社長にしきりに話しかけ、そばから離れないのだ。
まるで私との接触を妨害しているのではないかと、勘ぐりたくなるほど声を掛ける隙もない。
焦りと苛立ちを募らせていたところ、その老人が不意に振り向いた。
「君は確か……あぁ、思い出した。近衛社長の……お父上はお元気だろうか。
ますますのご活躍だが、働きすぎではないか。
忙しいのはわかるが、懇談会への出席も遠のいておられる。
次の会合にはぜひ顔を見せていただきたいと、丸田が言っていたと伝えてくれないか。
先生方もいらっしゃる、ご機嫌を損ねないためにも折々の挨拶は欠かせないからね。それにだ……」
くり返しくり返し、長々と続く老人の演説を辛抱強く聞いた。
代議士の先生方の機嫌をとり、挨拶を欠かすなと説教をする御仁には何を言っても通じない。
逆らわず、難なくやり過ごすのが利口だと父から教わっていた。
長い演説が終わり、立ち去ろうとする丸田老人へ深く頭を下げた私の態度に満足したのか、 「ご子息は心得ておるようだな」 とありがたい言葉を残してくれたが、そのとき、須藤社長がまだそこにいるのかいないのか、それさえわからなかった。
貴重な時間を無駄にしたと落胆していると 「近衛君、少しいいだろうか」 と背後から声を掛けられ、飛び上がるほど驚いた。
須藤社長は秘書に車で待つように言い渡すと、建物を出て庭へと促された。
その間、須藤社長から言葉はなく、私も無言のまま後ろを歩いていった。
境内の奥には庭園があり、その一角まで来ると須藤社長の足がとまった。
春になれば見事な藤が見られるのだろうが、冬の藤棚は寂しげで枯れた風情が虚しくもある。
「丸田会長の繰り言に、よく辛抱したものだ。感心したよ」
「いえ、先輩方のお言葉ですので」
「私も、あのように同じことを繰り返し、一方的な言い分なのかと思ってね……」
須藤社長が何を言おうとしているのか全身で聞き入るが、その本心は見えてこない。
私の返事を期待している風でもなく、思いつくままに話をされているようだ。
今日は声を掛けていただいた、それで良しとしようと心に決めた。
「君の話も聞くべきだと珠貴に言われたが、まったくその通りだね。近いうちに席をもうけるとしよう」
「ありがとうございます」
君の都合を知らせてもらえないかと嬉しい言葉をもらった。
重ねて 「ありがとうございます」 と礼を述べ、先ほど丸田会長を見送ったときよりさらに深く頭を下げると、須藤社長の右手が軽く上がり 「では……」 と声がした。
出会いがしらの固い顔はなく、うちとけた表情だった。
これで一歩前へ進むことができた、少しずつ足元を固めていけばいい。
そうすれば、きっと……
自分なりに明るい展開が見えてきて、期待を胸に須藤社長の後ろを歩き出した。