ボレロ - 第三楽章 -
10, con fuoco コン フオコ (熱烈に)
リビングの大きな窓から暖かな日差しが差し込む日曜日の午後、スコーンを頬張り紅茶で一息つくと、宗は当たり前のように私の膝に頭を預けソファに足を投げ出した。
仕事に区切りがつくと、こうして私の膝を求めてくる。
膝に頭をのせると目を閉じ、私ととりとめのない話をかわすのだが、そのまま眠ってしまうことも多い。
今回は特に難しい仕事だった。
いつも以上に疲れが顔に滲んでいるが、目を閉じた顔は大仕事を終えた安堵の表情も含んでいる。
この先、どんな展開が待っているのか私にもわからない。
けれど、もういままでのような迷いはなく気持ちが揺らぐことはない。
膝上の顔を眺めながら誓いを新たにした。
彼の髪を指で梳いていると、まもなく落ち着いた寝息が聞こえてきた。
あの日曜日の午後も膝枕の宗と一緒だった。
宗の髪はサラサラと手触りが良い。
香料はあまり好きではないと言う彼は、身だしなみのため、髪を落ち着かせる程度の少量の整髪料を手に取りサッと髪を撫でるだけ。
髪を梳くたびに立ち上る仄かな香りは、私の鼻をほどよくくすぐる。
すれ違いざまに鼻を覆いたくなるほどの強い香りを放つ男性もいる。
コロンや整髪料の個性的な香りを、男らしいと好む女性もいるが、私は遠慮したいものだ。
何度も宗の髪に指を差し入れ、私好みの香りを感じながら二人だけの時間に浸っていた。
今日もこのまま私の膝で眠ってしまうのだろうか……
ふいに、目を閉じたまま彼の口が動き出した。
「結歌さん、イタリアが長かったらしいね」
「そうよ。音大の3年のとき留学して、そのまま去年の秋までだから長いわね」
「ずっと学生だったわけじゃないだろう?」
「プロとして舞台に立っていたのよ。前にも結歌のこと話したじゃない。忘れたの?」
「そうだったかな、記憶にないなぁ」
「やだ ”へぇ、そんな友達がいるのか” って、あなたは返事をしたわ」
目を閉じたままで口を少し尖らせ考える顔をしていたが、そういえばそんなことを言ったような気がすると、頼りない返事が返ってきた。
「私の話を聞いても、うんうんと言うだけで覚えてないのよね。いつも適当に聞いてるんだから」
「適当じゃない、ちゃんと聞いてる」
「じゃぁ、私と結歌はいつから友達だったか覚えてる?」
「そんなの知らないよ。聞いてない」
「言いました」
「いつ言った。いつだよ」
「一昨年よ。リカルドさんがイタリアのミュージカル俳優だと紹介したとき。
声楽で留学している友人がいるのよって話したわ。そのとき結歌の話をしました」
宗の体が動き私の膝を離れた。
目を見開き、戦いを挑む姿勢になっている。
言葉だけでなく力でも押さえ込もうとしているのか、私の右腕を強くつかんできた。
「リカルドの話は聞きたくない。俺が気に食わないヤツだって知ってるだろう。
そんな時に話をしたのなら、記憶になくて当然だ」
「そんな言い方ってないわ。いつ話したのかと聞かれたから説明したのに。
男の人って、みんなどうしてそうなの? いっつもそうやって自分の都合で忘れるのね」
「たまたま忘れただけじゃないか。あげ足を取るようなことを言うなよ。それに、いっつもってなんだよ。
みんなって、誰のことを言ってるんだよ」
「あなただけじゃないわ、父だってそうよ。自分に都合のいいことばかり言って、都合の悪いことは覚えていないと平気で口にするわ。
伊豆のおじいさまも同じ、勝手なことばかり。どれだけおばあさまが泣いたか知らないのよ。それに……」
「話を飛躍させるなよ。いま、俺たちの話をしてるんじゃないか」
「飛躍じゃないわ。誰のことを言ってるんだって、あなたが聞いたのよ」
自分が優位であるとわかれば、余裕を持ってこちらの話を聞いてくれる。
けれど、立場が悪くなれば理詰めで話をねじ伏せる。
都合の悪いことは忘れて、聞いていないと言い張って譲らない。
宗も他の男性と変わりないわね。
こんな人と話をしても平行線のままだ。
つかまれていた手を振り払い、ソファから立ち上がった。