ボレロ - 第三楽章 -

11, bravura con ブラヴラ コン (精神こめて大胆に)



高層ビルが林立し、都会の喧騒が押し寄せる通りにありながら、そこだけは異空間が広がっているのではないか
と錯覚するほど静かな佇まいがある。

利便性の良さから大小のホテルがひしめき合うこの界隈で、狩野グループの 『榊ホテル東京』 は、ほかと一線を画していた。

未来のトップである狩野豪は、私の大学の同級生でありもっとも親しい友人だ。

狩野いわく 「ホテル業を始めたじいさんが、狭い部屋が苦手だった」 ということで、開業当初から部屋の広さにこだわり、外資系のホテルと同じかそれよりも広く、部屋から望む日本庭園の眺めとともに、都会の中の贅沢な空間は宿泊客をゆったりともてなしてくれる。


私にとって、ここは実に便利で都合が良い。 

会社から程よくはなれた場所にあり、ひとときでも仕事を忘れ心身を癒すには最適である。

室内環境はもとよりサービスも一流で、食事も美味いときている。

快適に過ごせるだけでなく、胃袋も満たしてくれるのだから文句のつけようがない。 

部屋で一緒に過ごすことの多い珠貴も大変気に入っているようで、内装や調度品それにアメニティグッズも上質の物がそろえられており、女性にはたまらないらしい。

「ここに住んでもいいわ」 と、厳しい目の彼女にそうまで言わせてしまうのだから、 『榊ホテル』 の経営戦略は成功しているといっていいだろう。


ホテルの器が素晴らしいだけではなく、ホテルマンの努力によって多くの客を惹きつけているのだが、そのなかに 「ウチの財産だよ」 と狩野が評するドアマンがいる。

彼に会いたくてホテルを訪れるという得意客も少なくない。

その人は、今日もにこやかにドアの前に立ち、車寄せに車が止まると機敏な動作で近づきドアを開けてくれた。



「近衛さま、お帰りなさいませ。あちらは吹雪きだとうかがいましたが、飛行機に影響はございませんでしたか」


「ただいま帰りました。一時間遅れでしたが無事に飛びました」



ホテルを住まいにしているわけではないが、ここから出勤することも多々あるため、私へは 「いらっしゃいませ」 ではなく 「お帰りなさいませ」 と声がかけられる。

それゆえ馴染みのドアマンに言われると 「ただいま」 の言葉が抵抗なくでてくるのだった。



「宮野さん、彼女は……」 


「須藤珠貴さまは、一時間ほどまえにお着きになられました」


「一時間も前に来たのか……待たせてしまったな。彼女の機嫌はどうでしたか」


「にこやかにご挨拶をいただきました」


「あぁ良かった……宮野さんにそう言ってもらえると安心しますね」


「おそれいります」



私の冗談を含んだ言葉にも、静かな笑みをたたえながら律儀に返事をしてくれる。

ベテランドアマンの宮野さんは、ホテルの顧客二千人以上の顔と名前、会社名それに役職を記憶している。

それだけでなく、客の家族構成、もろもろの好みなども熟知しており、ホテルをふたたび訪れた客への対応は素晴らしいもので、顔が合った瞬間名前を呼ばれ 「いらっしゃいませ」 と言われ、いたく感激したという話はつきない。

昨年の週刊誌騒動の頃、自宅に戻らずここを定宿にしていたが、ホテルの玄関に待機している宮野さんに何かと世話になった。

もとよりマスコミ対策には定評のあるホテルだが、玄関の守りは鉄壁で、客を装いホテルに入り込もうとする取材陣は、すべて宮野さんに見破られたと聞いている。

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