ボレロ - 第三楽章 -
2. ben marcato ベン マルカート (よく注意して)
外の風を感じたくて車の窓を少しだけ開けると、秋の気配を含んだ爽やかな
風がすべるように流れ込んできた。
「申し訳ありません。お閉めいただけますか。
走行中の窓の開閉は、避けたほうが良いと指示がありましたので」
「あっ、ごめんなさい……そうですね。
どこから見られているか、わかりませんものね」
一昨日発売の週刊誌は、私の環境に大きな変化をもたらした。
単独行動はしばらく慎むようにとの父の指示から、重役でもない私に専属の
運転手がつくことになった。
朝は自宅の玄関前に迎えに来た車で出勤し、勤務終了後はデザイン室が
入っているビルの地下駐車場に待機した車で、自宅まで送り届けてもらう。
「移動はすべて社用車で行うこと」 と言われてしまっては、寄り道どころか
買い物さえもままならない。
もっとも年配の男性社員がそばにいては、買い物などできはしないけれど……
私の元に配属されたのは、古参の社員である前島さん。
前島さんは社長付きの運転手だったが、しばらく病気のため休職しており、
先ごろ職場復帰したばかり。
真面目を絵に描いたような、融通が利かない律儀な性格で、言われた事を忠実
に守る人だ。
スキャンダルに巻き込まれた私の近くに配属するには、これ以上の人選はない
のかもしれない。
合併吸収の記事に関しては誤報であると、近衛側から我が社へ内々に事情の
説明があった。
それを受けて、会社としての対応を検討中に、近衛宗一郎が 『SUDO』 を
取り込むために私に近づいた
との記事が世の中に流れたのだった。
前日発売の写真週刊誌のツーショットは、プライベートを暴露するだけの一枚
だったのに、翌日発売の週刊誌に ”二人の関係は単なる交際ではない。
実は……” と記事がでたことで、写真に深い意味が加わった。
会社としての対応は、無言を徹底するが、取材陣に過敏にならないように、と
いうのが社長の考えであり、私にも休むことなく出勤するようにと指示が
あった。
叔母たちの意見は、私をどこかへ避難させてマスコミの目から遠ざけようとい
うものだったが、隠れるのは自分にやましいところがある者がすることである、
身を隠す必要などないと言う父に、表立って異を唱えるものはいなかった。
そうはいっても、記者に囲まれる事態にならないとも言えない。
運転手の前島さんには私の警護の任務も任されているため、トラブルを回避す
るための努力も課せられることになるのだ、不自由な環境になったと嘆くわけ
にはいかなかった。
週刊誌の発売後初めて出社する今日は、まず本社へ顔を出すように言われて
いた。
今回の件は、専務である和弘さんが中心となって対外的な対応を進めることが
決まっている。
打ち合わせのため本社の専務室へ行くのだが、地下駐車場へ入るとばかり思っ
ていた車は本社玄関口へと向かった。
「地下駐車場にはすでに数人の記者がいるようです。
表玄関へ向かうように、秘書の浅見さんから連絡をいただきましたので」
表玄関に寄せられた車から降りると、記者らしき人物は見当たらず、私は不自
由なく玄関ロビーへと入る事ができたのだった。