ボレロ - 第三楽章 -
私が知る浜尾真琴は、このようにプライベートを口にすることはなかった。
いついかなる時も個人を覆い隠し、感情さえもコントロールし仕事に徹する女性だった。
まれに私に苦言を呈することもあったが、それは仕事熱心からくるもので、個人的感情ではない。
幼い頃から知っているが、彼女がどんな音楽を好むのかなど知ることもなく、絵筆を握る趣味があったとは初めて知った。
会社で家族より長い時間を過ごしてきたというのに、浜尾君が私に見せていたのは彼女の表面的な部分だけだったのか。
知っているつもりで、実は何も知らなかった、知ろうともしなかった。
私も彼女は隙を見せずガードの固い女性であると、それで済ませてきたところもある。
それがこの数ヶ月でこんなにも彼女を変えてしまったのだから、櫻井祐介の存在たるやたいしたものだ。
彼らが同居していたのは本当のようだが、この場合、同居というより同棲と言う言葉の方が当てはまるのかもしれない。
君たちはそういう仲なのかと問いただしたいのを堪え、私は心得顔で会話を続けた。
「冬中こもっていたにしては、引き締まった体をしてるじゃないか。
家の中でランニングでもしてたんじゃないのか」
「体がなまらないように、地下にあるジム設備で日々鍛えてました。
時間はたっぷりありましたからね、結構筋肉がつきましたよ」
そう言いながら握り拳で腕を曲げてみせる。
ジャケット越しにも、櫻井君の腕の筋肉の張りは充分に見て取れた。
それをまた、眩しそうな目で浜尾君が見つめている。
微笑み返した櫻井氏の目の柔らかさに、二人の間に男女の感情が存在し、一緒に暮らしている者だけが持つ信頼関係が築かれていると、私はこのときようやく認めたのだった。
「今回は一時帰国? それとも……会社に戻ってくる気になった……わけはないか」
「そうですね。近衛さんにも心配をかけました」
櫻井君の言葉を待っていたように、彼女からも 「勝手をいたしました。申し訳ありませんでした」 と言葉が添えられた。
二人そろって深く頭を下げられ、これには私も神妙に応じた。
顔を上げた彼らの顔が晴れやかに見えたのは、一応のけじめがついたと思ったからだろう。
帰国後、すぐにでも会えないかと言ってきたのは、私へ筋を通したかったからに違いない。
しかし、けじめをつけるだけなら、なにもこれほどかしこまる必要はないのではないか。
割烹の奥まった一室を会合の場に選ぶのは、容易に人の耳に入らない用件があるときと決まっている。
「そろそろ話してもらおうか。ふたりそろって俺に頭を下げにきただけじゃないだろう?」
「近衛さん、相変わらずこういうことには鋭いな」
「こういうことってなんだよ。そういう君だって相変わらずじゃないか。
かけ引きにぬかりがない」
ふふっと忍び笑いをもらし、私と櫻井君は互いを褒めあった。
珠貴をめぐって対立していた頃には考えられない関係になったものだ。
いや、あの頃があったから今の我々があるのかもしれない。
「平岡君から聞いているかと思いますが、起業の準備を進めています。
とはいえ、まだなにも形になっていません。
近衛さんに、ぜひお願いしたいことがありまして……」
「ずいぶんと遠慮した言い方をするじゃないか。
櫻井君のことだ、俺が引き受けると踏んで持ちかけるんだろう?」
「いやぁ、近衛さんにはかなわないな。真琴さんから話してくれないか。
君のほうが話が早い」
はい……と小さく返事をした浜尾君が、櫻井君から話を引き継いだ。
私が知っている頃の櫻井君は 「浜尾さん」 と呼んでいた。
彼が、浜尾君を 「真琴さん」 「君」 と呼んだことで、二人の関係が深く揺るぎないものだと見せ付けられたようで、私は少しばかり動揺した。
が、次のひと言で動揺は驚きへと変わった。