ボレロ - 第三楽章 -
「宗一郎さん、個人的に秘書がご入用ではございませんか」
「個人的にとはどういうことだろうか。具体的に話してくれないか」
「かしこまりました」
背筋を伸ばした姿は秘書をしていた頃を髣髴とさせ、先ほどまで漂っていた女性の香りは消えていた。
「平岡さんや堂本さんへ、個人的な用件の依頼は限界があるはずです。
個人が有する秘書がいれば、彼らに気兼ねなく物事が進みます」
「代議士さながらに、浜尾真琴を私設秘書として雇う。そういうことだな。
君たちは、秘書稼業をはじめるつもりなのか?」
「いずれは法人化するつもりでおります。その手始めにと申しますか……
宗一郎さんに、私たちの最初のお客さまになっていただきたいのです」
「私が君たちの顧客になる……」
「はい。近衛ホールディングス副社長ではなく、近衛宗一郎氏個人として抱えていらっしゃる懸案事項があるとうかがっております。
それらの解決を、私どもにもお手伝いさせていただけないでしょうか」
「いや、あの……」
「なぜ知っているのかと、お聞きになりたいのでは?」
「うん、それより」
「それより、私どもがどこまで知っているのかご存知になりたいと」
「そうだが……なぁ、真琴、そんなにかしこまらなくてもいい。
もっと楽に頼むよ。どうも調子が狂っていけない」
ビジネスモードに切り替わった彼女に距離を感じ、つい 「真琴」 と呼びかけてしまった。
彼女の方も 「副社長」 ではなく 「宗一郎さん」 と私の名を呼んでいるのに、一向にくだける様子はない。
「気軽にお話しした方がよいのでしたら、そのようにさせていただきますが。
その前に、いかがでしょう、お引き受けいただけますか」
浜尾君との掛け合いには慣れているつもりでいたが、ここにいる彼女はすでに経営者然としていた。
ただ手伝わせて欲しいと言えば私が断るとわかっていて、このような提案をしたのだろう。
私に負い目を感じさせることなく、顧客第一号となることで仕事を依頼する。
実のところ、浜尾真琴の申し出は非常にありがたかった。
個人的な秘書がいれば動きやすい。
何より私の周辺に通じている彼女が秘書であるのだから、いちいち説明する必要がない。
阿吽の呼吸で動いてくれるだろう。
「君たちがやろうとしているのは、秘書の派遣業務といったところか」
「派遣には違いありませんが、登録制ではなく弊社の正社員として業務を行います。
また、秘書を育てる教育機関も自社で設けるつもりです。それだけではなく……」
それまで話を聞いていた櫻井君が、起業後のビジョンを熱心に語りはじめた。
二人は共同経営者となるそうだ。
父親の元で企業経営を学んだ櫻井君と、有能な秘書であり人材育成に定評のある浜尾君が手を組む。
これは面白ことになってきた。
浜尾真琴と櫻井祐介は、確実に新しい一歩を踏み出そうとしている。
まだ始まったばかりだが、綿密に練られた将来設計は見事だった。
「よくわかった。あらためてこちらから頼みたい」
「ありがとうございます」
「さっそくだが、昭和織機の丸田会長について、君たちが知っていることを聞かせてほしい」
私の突然の質問にもかかわらず、質問されるとわかっていたように櫻井君が答えていく。
それは個人が知る情報の量をはるかに超えていた。
「丸田会長に関する個人情報はほぼ把握しております。
会長の三男 望氏の情報もございますが、そちらもお聞きになりますか」
「知ってるのか!」
「はい、存じております」 と、私設秘書となったばかりの浜尾真琴が自信ありげに微笑んだ。
丸田会長の三男 丸田望氏は、父親の意向に背き、自らの意思で別会社へと入社した人物だ。
つい先日、ここ 『割烹 筧』 の離れで、三宅会長から 「丸田望に会ってみるように」 と助言をもらったばかりだ。
私がいま一番関心のある人物でもある。
帰国したばかりの彼らが、それを知っているというのか……
見えない力が私を後押ししてくれている。
舞い込んだ幸運を逃がすものか。
乾いた喉をゴクリと鳴らし、聞かせてもらおうかと声にした。