ボレロ - 第三楽章 -
廊下を急ぐ足音が近づいてくる。
浜尾君が戻ってきた。
「丸田望様と連絡がつきました。明後日、夜9時以降でしたらお時間をいただけるそうです。
あちらがお急ぎでしたので、私が時間と場所を設定いたしました。副社長の了解も得ず申し訳ありません」
「いや、それはかまわない。ありがとう」
彼女の一存で決めたことに異存はなかった。
久しぶりに副社長と呼ばれくすぐったい思いがしたが、次の浜尾君の言葉に消えかけた櫻井君への燻りが再燃した。
「いいえ……では、あらためて詳しい日時と場所はお知らせいたします。
祐介さん、明日付き合って欲しいの。入り組んだ場所みたいだから、一度確認しておきたくて。いいかしら」
「あぁ、そうしよう。間違いがあってはクライアントに迷惑をかけるからね」
「祐介さん」 と呼びかけた浜尾君に満足そうな顔をむけた櫻井祐介は、そのあと、勝ち誇った目で私を一瞥した。
「こんな夜中に会いたいなんて、どうしたの?」
「迷惑だったかな……」
「いいえ、そんなことないのよ。私は嬉しいけど、宗の顔が疲れているみたいだから」
膝に乗せた頭を抱え込み、珠貴の手が私の髪を梳く。
その手に癒されながら、私の口がゆるやかに動き出す。
時には嬉しいことを伝え、時には愚痴をこぼす。
今夜はふたたび胸に満ちたもやを消化できず、珠貴の膝に救いを求めていた。
櫻井祐介と浜尾真琴の帰国は珠貴も知っていた。
今夜彼らに会うことも伝えておいた。
櫻井君に言われたこともあり、彼らの申し出から浜尾君に個人的に秘書を頼んだと伝えると、それは良かったわねと、これには素直に喜んでくれたのだが……
「……と、こんなことを言うんだ。俺と真琴の付き合いの長さに文句を言わんばかりだ。
名前で呼んで何が悪い」
「悪いとか、悪くないとかじゃないと思うの。櫻井さんが、真琴さんを大事に思ってらっしゃるからでしょう」
「俺と真琴のことだ。アイツに言われる筋合いはない」
「あきれた……」
「だろう? 櫻井のヤツ」
「違います。あなたにあきれたの」
ため息をひとつ漏らすと私の頭を乱暴にソファにおろし、珠貴は帰り支度を始めた。
「明日の朝送っていくよ」 と引き止めるが、すでにスプリングコートをはおり玄関へ向かっている。
「お疲れでしょう、今夜は早く休んでね。明日は紗妃がお世話になります」
「珠貴」
すがる目が珠貴を追っているとわかっていながらにべもない。
どうして彼女の機嫌を損ねてしまったのか、私には見当もつかなかった。
せめて階下まで送っていこうと思い、彼女の後ろを歩いて玄関まで来たところで、立ち止まり振り向きざまの珠貴に頬を挟まれた。
「どうして怒ってるんだろうって思ってるんでしょう?」
「うん……」
「私もね、あなたが ”真琴” と呼ぶ声を聞きたくないの。いい気分ではないの。それだけよ」
「……」
「おやすみなさい」
キスでもしてくれるのかと期待していたのだが、頬から手を離すと、またくるりを背と向け、今度は本当に帰っていった。
私は珠貴に愛想をつかされたのだろうか。
その夜、私は出口のない迷路に入り込んだ夢にうなされ続けた。