ボレロ - 第三楽章 -
夕暮れ時を迎えたホテルは、にわかに華やかさを増す。
昼間の落ち着いた雰囲気を残しながら、シャンデリアの眩い灯りが彩を加え、夜の時間の訪れを告げる。
ライトアップされた玄関に着飾った大人たちが到着すると、ロビーはひととき社交場と化す。
心理学的に、黄昏時というのは人の心を停滞させ、活動能力が低下する時間帯といわれるが、格式のあるホテルにおいては、必ずしもあてはならないようだ。
行儀良く座席に座る紗妃ちゃんに 「もうすぐつくよ」 と声をかけると、「はい、すごくドキドキしてます。でも楽しみです」 と弾んだ声がかえってきた。
ホテルの車寄せにつくと、近づいてきたドアマンによってドアが開けられた。
「お帰りなさいませ」 ではなく、連れのある今日は 「いらっしゃいませ」 と迎えられ、
帰りの時刻を告げながら宮野さんの手にキーを預けた。
後部座席からおりた紗妃ちゃんを出迎えたのは、若いドアマンだった。
「須藤さま、いらっしゃいませ」
「えっ、あの、わたしの名前を?」
「はい、先月お越しになられましたおり、お名前を伺っております」
「そういえばランチに……でも、一回で覚えてしまうなんてすごいですね」
いきなり名前を呼ばれながら迎えられたため、紗妃ちゃんはかなり驚いたようだ。
「彼はね、数百人の名前を覚えているそうだよ」
「そんなに多くの方を?」
「いいえ、まだまだです」
キャリアは浅いがドアマンの心得ができている彼は、自分より下の女の子であっても対応の姿勢を崩さない。
「そうなんですか?」 と私の顔に聞いてきたため、こちらの宮野さんは、二千人以上の客の名前と客の特徴を覚えているんだよと教えたところ、ベテランドアマンを尊敬のまなざしで見つめたあと……
「でも、遠堂さんもやっぱりすごいと思います」
「あっ、ありがとうございます」
紗妃ちゃんの真っ直ぐな瞳に見つめられ、お返しのように名前まで呼ばれたのだから、遠堂君も冷静ではいられなかったのか、あわてた返答になったが、それも彼の真摯な一面だろう。
そんな彼を大先輩の宮野さんが 「ご案内してください」 とすかさず促した。
ホテル内へと案内した遠堂君へにっこりと微笑んで 「ありがとう」 と礼を言う紗妃ちゃんが、堂々として見えた。
私たちの姿が見えると、フロントから狩野がやってきた。
お待ちしておりましたと、これもまた仰々しく礼をしてエレベーターへ案内する。
「どうぞ」 とエレベーター内にいざなわれ、ドアが完全に閉まるまでホテルマン狩野は頭を下げ続けた。
『シャンタン』 の前では、オーナーでありギャルソンの羽田さんが私たちを迎えてくれた。
老齢のギャルソンから大人と変わらぬ扱いを受け、紗妃ちゃんの緊張はここで最高潮に達した。
彼女の誕生日ディナーであることと、格式のあるレストランのディナーは初めてであると、羽田さんにはあらかじめ伝えておいた。
個室ではなく大人が集うホールに席が設けられていたのは、レストランの雰囲気を感じて欲しいという羽田さんの心配りだろう。
席に案内され椅子に腰掛けると、正面に座る紗妃ちゃんは、ほぉーっ…と小さく息をはいた。
ほどなくディナーははじまった。